谷九ホテヘル&待ち合わせ 亭主関白

OPEN.10:00-LAST・年中無休

TEL.06-6777-7100

毛を返せ。大脱毛時代に改めて考える「体毛フェチ」という愛について

毛を返せ。大脱毛時代に改めて考える「体毛フェチ」という愛について

世は、大脱毛時代である。

街を歩けば脱毛。
電車に乗れば脱毛。
スマホを開けば脱毛。

女性だけではない。
男性もヒゲを剃り、脚を剃り、腕を剃り、
胸を剃り、腹を剃り、ついには
パンツの中まで剃り始めた。

「VIO」という、かつてなら
美容雑誌の片隅にもなかったアルファベット三文字が、
今ではコンビニコーヒーのサイズ表記くらい
自然な顔をして世の中を歩いている。

パイパンもそうだ。

少し前までなら、どこか特殊な性的嗜好や
AVの世界を連想させる言葉だったはずなのに、
今では「蒸れにくい」「自己処理が楽」「介護に備えて」と、
ずいぶん堅実な顔をして
美容クリニックのカウンセリング項目に収まっている。

時代は変わった。
それは分かる。
だが、ひとつだけ聞きたい。

毛は、そんなに悪いことをしただろうか。

毛はただ、生えていただけである。

人類の身体に何万年、何十万年、
あるいはそれ以上の時間をかけてしがみつき、
思春期が来れば「そろそろ私の出番ですね」と
脇や股間へ律儀に現れた。

それなのに21世紀の人類は、彼らをこう呼ぶ。

ムダ毛。

あまりにも冷たい。

しかも世の中が毛を嫌えば嫌うほど、
切実な問題を抱える人々がいる。

体毛を愛している者たちである。

腋毛が好き。
陰毛が好き。
胸毛が好き。
すね毛が好き。
うっすら生えた腕毛にさえ、
人類の尊厳を見る者もいる。

第三者からすれば、
「そんなことで文明の危機みたいな顔をするな」
と言いたくなるだろう。

しかし本人たちは大真面目だ。

そこで今回は、
体毛フェチとは何なのかを改めて考えたい。

なぜ毛はエロくなるのか。
なぜ人類は毛を嫌うようになったのか。
毛は本当に不潔なのか。
そして我々はいつから、
これほどまでにツルツルを求める民族になったのか。

話は毛一本から始まる。
だが安心してほしい。
最終的には、人類進化、心理学、
文化史、広告、宗教、性まで行く。

毛とは、それほど重い問題なのである。

世は大脱毛時代。毛が次々と消えている

少し前まで、「脱毛」といえば
圧倒的に女性美容の話だった。

脚。
腕。
脇。
顔。

女性誌には「ムダ毛処理」という言葉が並び、
夏が近づけば「見せられる肌」の準備が始まった。

ところが現在、その戦線は男性側にも広がっている。

ヒゲ脱毛はもはや珍しくない。
すね毛を薄くする。
胸毛をなくす。
腹毛を整える。
VIOまで処理する。

キッズ脱毛、介護脱毛といった言葉まで登場し、
脱毛は「若い女性がモテるためにする美容」から、
年齢も性別も超えた身体管理へと進化した。

体毛愛好家の視点から見ると、
これはほとんど領土侵攻である。

最初に脇が落ちた。
次に脚が落ちた。
腕が落ちた。
ヒゲも危ない。

そして今、最後の砦だった陰毛に
レーザーが照射されている。

戦況は極めて厳しい。

もちろん、本人が脱毛したいのであれば自由だ。

問題は、脱毛が徐々に「好み」ではなく、

やっていて当然の身だしなみ

へ近づいていることである。

特に厄介なのが「清潔感」という言葉だ。

「清潔」と「清潔感」は似ているようでまったく違う

ここで非常に重要なことがある。

清潔であることと、
清潔感があることは同じではない。

清潔とは、本来は衛生状態の話だ。

洗っている。
汚れていない。
感染リスクが低い。

そういう話である。

ところが「清潔感」となると、
途端に話が複雑になる。

髪型。
肌。
爪。
服装。
匂い。
姿勢。
話し方。

さらには「ちゃんとしていそう」
「自己管理できていそう」といった
人格評価まで入り込んでくる。

現代日本で「清潔感」は単なる衛生ではなく、
他者から好意的に受け取られるための身体表現になっている、
という社会学的な議論もある。

そして体毛は、その審査対象になった。

毛深い。
イコール、
だらしない。
不潔そう。
自己管理していなさそう。
そんな連想が発生する。

だが少し考えてみてほしい。

腕毛一本に、そこまでの人事考課を
背負わせる必要があるだろうか。

毛は履歴書を書いていない。
資格も持っていない。
ただ毛穴から出ているだけである。

ところが現代社会では、その一本が
「この人はちゃんとしているか」を判定する材料になってしまう。

特に男性美容では、

「女性にモテる」

だけでなく、

「仕事で好印象」
「できる男に見える」
「自己管理能力が高い」

といった意味まで脱毛に付加される。

つまり脱毛は、いつの間にか美容から人格形成へ進出した。

体毛愛好家としては、ここで一度申し上げたい。

毛深くても仕事はできる。
当たり前である。

そもそも「ムダ毛」は、本当にムダなのか

次に根本的な問題へ進みたい。
我々は何気なく「ムダ毛」と呼ぶ。

だが人体がわざわざ生やしている以上、
本当に100%ムダなのだろうか。

体毛には部位によって
さまざまな役割が考えられている。

皮膚への刺激を和らげる。
摩擦を減らす。
外部からの刺激を感知しやすくする。
頭髪なら紫外線や熱から頭部を守る役割もある。
そして陰毛や腋毛は、思春期になると現れる二次性徴の一つでもある。

つまりあれは、ただの飾りではない。

身体が「成長しました」と掲げる旗でもある。

人類は進化の過程で、
他の霊長類のような全身を覆う濃い毛を
大幅に失ったと考えられている。

なぜ毛を失ったのか。

発汗による体温調節に有利だったから。
寄生虫を減らせたから。
性的選択が関係したから。

さまざまな仮説があり、完全には決着していない。

しかし重要なのは、

人類はすでに一度、かなり毛を減らしている

ということである。

我々の祖先は長い進化の末、
全身モフモフ状態から現在の
比較的ツルッとした身体へやってきた。

それでも頭、脇、股間などには毛が残った。

そして現代人は、そのわずかな生き残りを見て言った。

「ここもいらないな」

非情である。

数百万年かけて残った毛を、30分の施術で消す人類

この構図を壮大に考えると、かなりすごい。

進化というものは途方もない時間をかけて進む。

環境。
生存。
繁殖。
突然変異。
自然選択。

そうした積み重ねの末に現在の人体がある。

その身体に残った毛を前に、
21世紀の人間はスマートフォンを取り出す。

予約する。
来院する。
紙パンツに履き替える。
レーザーを当てる。

進化史に対する手際が良すぎる。

陰毛や腋毛が残った理由については、
摩擦軽減や性的成熟のサイン、
匂いに関する役割など、いくつもの説がある。

とくに腋や陰部にはアポクリン腺があり、
思春期以降に活発になる。

そこから「体毛は性的な匂いを拡散するために残ったのでは」と
語られることもあるが、ヒトのフェロモンについては
現在も研究上の議論があり、単純に断定できる話ではない。

それでも少なくとも、

脇と股間の毛が、性的成熟と無関係ではない

という事実は面白い。

人間がそこへ性的な意味を感じるのも、
まったく突拍子もない話ではないのである。

ここでようやく、体毛フェチの話へ戻ってくる。

体毛フェチは、いったい毛の何を愛しているのか

毛への性的嗜好は、英語圏では広く
「trichophilia」などと呼ばれることがある。

対象は頭髪だけとは限らない。

ヒゲ。
胸毛。
腋毛。
陰毛。
腕毛。
脚毛。

体毛愛好家の世界は想像以上に細かい。

しかも、

「毛があれば何でもいい」

というほど雑ではない。

濃さ。
長さ。
生え方。
色。
範囲。
柔らかさ。
手入れされているか。
完全放置か。

同じ腋毛でも、「うっすら派」と
「堂々フサフサ派」では思想が違う。

第三者にはどうでもいい違いに見える。
しかし本人たちにとっては重要である。

ワイン好きが産地を語り、
コーヒー好きが焙煎度を語るようなものだ。

こちらは毛量を語っているだけである。

体毛には「大人の身体」という記号がある

体毛がエロティックに感じられる
理由の一つとして考えられるのが、
性的成熟との結びつきだ。

陰毛や腋毛は思春期に現れる。

男性ならヒゲや胸毛も、
男性ホルモンの影響と深く関わる。

つまり毛は、

子どもの身体から
大人の身体へ移ったことを視覚的に示すサイン

でもある。

特に陰毛は象徴的だ。

生殖器そのものではない。
だが、その周囲に生える。

それだけで強烈に「性」を連想させる。

さらに男性の胸毛やヒゲは、
文化によっては男性性、成熟、強さの象徴として扱われてきた。

逆に女性の腋毛や陰毛は、
現代社会では「処理されていること」が一般化したため、
残っているだけで強い身体性を感じさせることがある。

つまり体毛フェチとは、

単に黒い線状のケラチン物質が好きなのではなく、

その毛が示す

成熟、性差、身体性

まで含めて愛している可能性がある。

毛一本にしては、背負っているものが大きい。

見るだけではない。「生身感」がある

さらに体毛には、
視覚だけではない魅力がある。

触感。
柔らかさ。
チクチク感。
密度。
指が通る感覚。
汗を含んだときの変化。
そして匂いのイメージ。

腋毛フェチなどでは、とくに
「汗」「匂い」「生活感」と切り離せない嗜好もある。

ここで重要になるのが、

生々しさ

ではないだろうか。

現代の身体は、かなり加工される。

脱毛する。
デオドラントする。
角質を取る。
毛穴を消す。
肌を加工する。
写真ではさらにフィルターをかける。

人間の身体から、
人間っぽいノイズがどんどん消えていく。

その中で体毛は頑固だ。

「いや、私は生物ですけど」

という顔をして生えてくる。

そこに惹かれる人がいる。

ツルツルの身体には完成された美しさがある。

一方、毛のある身体には、

人間が実際に生きている感じ

がある。

汗をかく。
匂う。
毛が伸びる。
完璧ではない。
そこがいい。

体毛フェチが愛しているものの一部は、
もしかすると毛そのものではなく、

加工しきれない身体の生々しさ

なのかもしれない。

これは非常に大切な話である。
本人にとっては。

人類は昔から毛を剃ってきた。それでも今とは少し違う

「昔はみんな自然体だった」というわけではない。

人類はかなり昔から毛を剃っている。

古代エジプトでは、
身体の毛を処理する習慣があったとされる。

イスラム圏でも腋毛や陰毛の処理は、
宗教的な清浄観や身だしなみと結びついてきた。

つまり、

毛を剃る文化そのものは
現代美容産業の発明ではない。

人間は昔から毛を抜いたり剃ったりしている。
理由もさまざまだ。

衛生。
宗教。
階級。
美意識。
性的魅力。

人類は昔から、
毛に意味を与えるのが好きだったらしい。

ただし現代には大きな特徴がある。

美容産業と広告が、
毛の意味を大量生産できるようになったこと。

ここが重要だ。

「毛があると困る」を作れば、毛を消す商品が売れる

脱毛ビジネスには単純な構造がある。

毛をなくす商品を売るには、まず、

毛がある状態を問題だと感じてもらう必要がある。

そこで広告は長年、さまざまな物語を作ってきた。

「見られたら恥ずかしい」
「男性に嫌われる」
「女の子らしくない」
「処理していないなんて信じられない」

こうしたネガティブな訴求がある。

一方、近年は表現が柔らかい。

「もっと自分を好きになる」
「自分らしく輝く」
「自分のための美容」
「自己投資」
「前向きな選択」

ずいぶん優しくなった。

だが、よく見ると最終目的は同じである。

毛は抜かれる。

現代の脱毛広告には、
無毛の身体を美しさや自己肯定と結びつけるタイプと、
有毛の身体を恥やコンプレックスと結びつけるタイプがあり、
どちらも結果的には脱毛へ向かわせる構造がある、という研究もある。

つまり、

昔は、
「そんな毛じゃモテませんよ」
だった。

今は、
「もっと自分を愛してあげませんか」
になった。

言葉は優しい。
レーザーは同じである。

日本人は「毛が見えた!」だけで騒いでいた時代がある

ここで日本の話をしよう。

現在、陰毛を完全に処理するパイパンは、
美容の一つとしてかなり一般的に語られている。

しかし日本には、つい最近まで
まったく違う時代があった。

1990年代初頭。

いわゆる「ヘア解禁」の時代である。

今の若い世代には伝わりにくいかもしれないが、
当時はヌード写真に陰毛が写ること自体が大きな事件だった。

毛が見える。

それだけでニュース性があった。

象徴的なのが「ヘアヌード」という言葉だ。

冷静に考えると妙な言葉である。

裸なのだから、本来なら肌や乳房や
性器周辺の方が重要そうなものだ。

ところが日本社会は、

毛が写っているかどうか

を分類名にした。

毛への執着がすごい。

ヘアヌードからパイパンへ。たった数十年の大逆転

そしてそこから数十年。
現在はどうか。

「VIO脱毛」
「ハイジニーナ」
「全部なくす」
「少し残す」
「形を整える」

そんな話が美容情報として普通に出てくる。

かつては、

「陰毛が見えた!」

が事件だった。

今では、

「陰毛をどう処理する?」

が日常会話に近づいている。

文化の変化とは恐ろしい。

体毛愛好家からすれば、
大陸が沈んだくらいの変化である。

わずか数十年。

かつて写真集に一本写るだけで社会がざわついた毛が、
現在では「不要なら全部なくせます」と言われている。

栄枯盛衰。
諸行無常。

毛にも平家物語がある。

そして大脱毛時代は、皮肉にも毛をもっとエロくした

しかし歴史は皮肉だ。
毛が減れば減るほど、
毛がある身体の存在感は増す。

考えてみてほしい。

周囲の多くが自然な腋毛を見せていた時代なら、
腋毛はただの腋毛である。

ところがみんなが剃るようになる。

すると、

一本生えているだけで目立つ。

フサフサならなおさらだ。

陰毛も同じ。

無毛やきれいに整えられた状態が一般化すると、

自然なフルブッシュが逆に「特徴」になる。

ポルノでも、

「hairy」
「bush」
「natural」

といった言葉が独立したカテゴリーとして成立している。

つまり以前なら単なる人体だったものが、

フェチジャンルになった。

これはかなり興味深い。

脱毛業界は体毛フェチ最大の協力者なのか

ここで認めたくない可能性が浮かんでくる。

体毛愛好家がこれほど毛に心を奪われるのは、
世の中から毛が減っているからではないか。

心理学では、希少なものや禁止されたもの、
手に入りにくいものが注意を引きやすくなる現象が知られている。

ただし、

「体毛が希少になったから体毛フェチになった」

とまで直接証明されているわけではない。
そこは分けて考える必要がある。

だが少なくとも、

無毛が標準になればなるほど、
有毛の身体が強い記号になる

ということは十分考えられる。

つまり脱毛文化は、
体毛フェチにとって敵でありながら、
同時に体毛の価値を高めている。

毛を消す。
毛が珍しくなる。
珍しいから目立つ。
目立つから意識する。
意識するからエロい。

なんということだ。

私は今まで、脱毛業界を敵だと思っていた。

しかし彼らは結果として、
毛を高級品にしてくれていた可能性がある。

ありがとう。

……。

いや。

やはり残してほしい。

毛を剃る自由があるなら、毛を愛する自由もあっていい

ここまで大げさに語ってきたが、
結論は意外と単純だ。

脱毛したい人はすればいい。

ツルツルが好きならツルツルでいい。
パイパンが好きならパイパンでいい。

逆に、

腋毛が好き。
胸毛が好き。
陰毛が好き。
すね毛が好き。

それも同じくらい自由でいい。

問題なのは、

どちらか一方が「普通」で、
もう一方が「変」とされること

なのだろう。

人類は長い歴史の中で、
毛にとんでもない量の意味を乗せてきた。

大人。
子ども。
男らしさ。
女らしさ。
野性。
文明。
清潔。
不潔。
羞恥。
成熟。
性。
匂い。
フェチ。

生物学的には、ただの毛である。

しかし人間は、そこへ意味を詰め込みすぎた。

だから体毛は、ときに嫌悪の対象になり、
ときに強烈な性的魅力にもなる。

そう考えると、

毛がエロいのではない。
人間が毛をエロくしてきた

と言った方が近いのかもしれない。

そして現在。
人類はかつてない勢いで毛を消している。
もしかすると数十年後、
自然な腋毛や陰毛を見て、

「昔の人って本当にこんなに毛が生えていたの?」

と驚く世代が現れるかもしれない。

その日が来たら、私は静かに古文書を差し出したい。

そこにはこう書いてある。

かつて人類には、毛があった。

もちろん、そんな未来が本当に来るかは分からない。
ただひとつ願うことがある。
脱毛するなとは言わない。
毛が嫌いなら、それもいい。

だがもし、
今まさに鏡の前で、
「この毛、なくそうかな」
と少しだけ迷っている人がいるなら。

その毛を必要としている人間が、
この世界のどこかにいることだけは覚えておいてほしい。
こちらは大真面目である。

コラム一覧へ