目次
キスをする。
身体に触れる。
少しずつ気分を高める。
そして挿入。
やがてオーガズムや射精を迎えれば、「終わった」となる。
あまりにも見慣れたSEXの流れだ。
特別な性癖も、特殊なプレイも必要ない。
むしろ多くの人が「普通のSEX」と聞いて
真っ先に思い浮かべるのが、こんな順序ではないだろうか。
だが、一度冷静に眺めてみると妙な話でもある。
キスだって性的な行為だ。
愛撫だって性的な行為だ。
オーラルセックスともなれば、
名前に堂々と「セックス」まで入っている。
ところが、それらをひとまとめにして
人間は「前戯」と呼ぶ。
そして挿入へ移った瞬間、
日本語ではしばしばこう言う。
「本番」
何という格上げだろう。
さっきまで二人で散々エロいことをしていたにもかかわらず、
挿入するまでは「まだ本番ではありません」という扱いである。
しかも本番には、その先にクライマックスまで用意されている。
前戯。
本番。
絶頂。
終了。
まるでSEX一本に、序章、本編、山場、
エンディングまで備わっている。
いったい誰が、こんな壮大な脚本を書いたのだろう。
人間の身体なのか。
生殖という目的なのか。
医学なのか。
宗教なのか。
それとも、長い歴史のなかで
人間自身が勝手に作り上げた物語なのか。
今回は「前戯」という何気ない言葉から、
SEXという行為に人間がどんな意味と順序を与えてきたのかを掘っていく。
読み終わる頃には、普段何気なく使っている
「前戯」と「本番」という言葉が、
少しだけ不思議に聞こえるはずだ。
そもそも「前戯」は昔から前戯だったのか?
まず最初に分けて考えておきたいことがある。
前戯にあたる行為の歴史と、
「前戯」という考え方の歴史は同じではない。
抱き合う。
口づけをする。
身体を撫でる。
相手の反応を楽しみながら刺激を加える。
こうした行為自体は当然、
20世紀の性科学者が発明したものではない。
古代インドの性愛論にも
接吻や抱擁など多様な性的行為が登場するし、
日本の江戸時代の性愛文化にも
「口吸い」など、現代人なら前戯と呼びたくなる行為が確認できる。
人類は「前戯」という単語を知らない頃から、
ずいぶん前戯っぽいことをしていたわけだ。
しかし、ここに罠がある。
現代人から見て前戯に見えるからといって、当時の人までそれを、
「これは性交へ向かうための準備段階でございます」
と考えていたとは限らない。
キスは古い。でも「キス=本番前」とは限らない
たとえばキス。
現代では「まずキスから」という
SEXの定番コースに組み込まれているが、
キスそのものに「私は挿入の前座です」
という宿命が刻まれているわけではない。
キスだけを楽しむこともある。
性交中にキスすることもある。
性交後にもキスする。
だったら、いったいどのキスが「前戯」なのだろう。
同じことは愛撫にも言える。
性交前に行えば前戯。
性交中なら前戯ではない?
では途中でいったん挿入をやめて愛撫へ戻ったら、
それは再び「前」に戻ったことになるのか。
SEXは現実にはかなり自由に行ったり来たりする。
ところが、人間の言葉は
それを無理やり一本の時間軸へ並べたがる。
前にある行為。
中心にある行為。
後にある行為。
ここにすでに、「SEXを物語として理解したい」
という人間のクセが見え始める。
英語の foreplay が性的な意味で使われるようになるのは、
確認できる範囲では20世紀初頭のこと。
もちろん、その瞬間に
人類が突然キスを覚えたわけではない。
新しくなったのは行為ではなく、
「これらは性交の“前”に行う一群の行為だ」
と括る発想の方だったと考えた方が自然だろう。
つまり、前戯というカテゴリーは意外と新しい。
そしてここから、さらに大きな謎が生まれる。
そもそも、なぜ何かを「前」と呼ぶ必要があったのか。
答えは単純だ。
後ろに“本体”が設定されたからだ。
前戯最大の謎――なぜ挿入だけが「本番」なのか?
前戯について考えると、多くの人はつい、
「なぜ人間には前戯が必要なのか」
と質問したくなる。
もちろん身体的な理由はある。
性的興奮が高まれば血流や感覚が変化し、
潤滑なども起こりやすくなる。
心身の準備が整うことで、
性交を快適にしやすくなる人も多い。
だから、段階的に刺激を高めること自体には生理的な意味がある。
しかし、それだけでは説明できない。
身体が準備を必要とすることと、
「その準備段階を“前戯”と呼び、挿入を“本番”とすること」
は別の話だからだ。
ここで登場するのが、性研究で使われる
coital imperative という考え方。
日本語にするなら「性交中心主義」
「性交至上主義」といったところ。
難しそうに聞こえるが、意味はかなり単純。
ペニスと膣による性交こそが
“ちゃんとしたSEX”の中心だ、
と考えてしまう文化的なクセである。
これを意識すると、
「前戯」という言葉の正体が見えてくる。
キスが前戯なのではない。
愛撫が前戯なのでもない。
オーラルセックスが前戯なのでもない。
挿入をSEXの中心へ置いた瞬間、
それ以外が相対的に「前」に落ちる。
前戯は単独で存在しているのではない。
「本番」という王様が即位した結果、
その周囲に臣下として前戯が誕生した、
と考えると分かりやすい。
「SEXした」と言える境界線は、意外とグラグラしている
この問題がよく見えるのが、
「どこからがSEXなのか?」
という質問だ。
キスだけならSEXしたことになるだろうか。
おそらく多くの人は「ならない」と答える。
では手を使った性的な刺激は?
オーラルセックスなら?
かなり意見が割れ始める。
では膣への挿入が数秒だけあったら?
急に「SEXした」と答える人が増えるだろう。
不思議なものである。
性的な濃密さだけで考えれば、
長時間のオーラルや愛撫の方が、
数秒の挿入より遥かに「SEXっぽい」場合すらある。
それでも挿入が発生すると、
「一線を越えた」
と感じる。
処女・童貞という概念も、
この境界線と深く結びついている。
何をもって「初体験」とするかを考えたとき、
多くの文化では膣性交が特別扱いされてきた。
つまり「本番」は、身体のどこかに
物理的な線として存在しているわけではない。
人間が、
ここから先を“本物のSEX”と呼ぼう
と意味づけた線でもある。
この時点で、前戯という言葉は
単なるハウツー用語ではなくなる。
そこには、人間がSEXへつけた序列が隠れている。
誰にも台本を渡されていないのに、なぜみんな似たSEXをする?
さらに奇妙なことがある。
学校の保健体育で、
「キスをして、次に身体を触り、頃合いを見て
服を脱がせ、そこから挿入へ進みましょう」
などと教わった人はほとんどいないだろう。
そんな授業があれば、出席率だけは異様に高そうだ。
ところが、多くの人がSEXについてかなり似た順序を思い浮かべる。
誰が教えたのか。
ここで役に立つのが、
社会学者のジョン・ギャニオンと
ウィリアム・サイモンらが発展させた
セクシュアル・スクリプト理論だ。
簡単に言えば、
SEXにも社会から学んだ“台本”がある
という考え方である。
誰が誘うのか。
どんな行為から始めるのか。
何をすれば「SEXが始まった」と認識するのか。
何がクライマックスなのか。
どこでSEX終了となるのか。
こうしたことを、人間は生まれた瞬間から
本能だけで知っているわけではない。
友人との会話。
恋愛。
雑誌。
映画。
ドラマ。
AVやポルノ。
性教育。
インターネット。
これまで見聞きしてきた無数の情報から、
「SEXとはだいたい、こういうもの」
という型を覚えていく。
ベッドの上にも「お約束」がある
映画には映画のお約束がある。
刑事ドラマなら事件が起こる。
恋愛映画なら二人の距離が近づく。
アクション映画なら最後に大きな戦いが来る。
観客はそれをいちいち説明されなくても理解できる。
SEXにも似たところがある。
キス。
愛撫。
服を脱ぐ。
挿入。
オーガズム。
終了。
この流れがあまりにも共有されているため、
私たちはそれを「文化的な脚本」ではなく、
「SEXという行為そのものの自然な順序」
だと思いやすい。
だが、実際のSEXはそれほど脚本通りではない。
キスから始まらないこともある。
途中で笑うこともある。
挿入した後に愛撫へ戻ることもある。
オーガズムがなくても満足することもある。
そもそも挿入しないまま終わることだってある。
現実はかなり自由なのに、
頭の中では「王道ルート」が存在している。
人間はベッドの上ですら、
ストーリーを欲しがる生き物らしい。
20世紀、人類はSEXに「正しい手順」を作り始めた
ここからSEXの物語は、さらに壮大になる。
19世紀末から20世紀前半にかけて、
西洋では性科学や夫婦向けの性指南書が次々と登場した。
それ以前にも性について語る本は当然あったが、
近代になるとSEXはより細かく分析される。
結婚生活を成功させるにはどうすればいいのか。
女性をどう興奮させればいいのか。
性交前にどんな刺激を与えるべきなのか。
男女双方が満足するには何が必要なのか。
SEXは次第に、
「自然に任せればなんとかなるもの」から
「正しく学べば上達できる技術」
へと変化していく。
20世紀初頭のアメリカの結婚指南書では、
夫が妻の性的興奮へ配慮し、
性交前に十分な刺激を与えるべきだ
という議論が目立つようになっていく。
これは女性の快楽を重視するという意味では、大きな変化だった。
ただ同時に、
前戯 → 性交 → オーガズム
という「良いSEXの工程表」も、
よりはっきりしていくことになる。
前戯はここで、単に気ままな性的遊びではなく、
性交を成功させるための重要なプロセス
として位置づけられていった。
工場なら準備工程。
料理なら下ごしらえ。
ライブならリハーサル。
SEXだけ妙にロマンチックな顔をしているが、
やっていることはかなり工程管理である。
そして、工程管理を始めると人間は次に必ずこう考える。
「では、成功とは何か?」
SEXはいつから「成功させるイベント」になったのか?
現代のSEXには、かなり多くの採点項目がある。
勃起できたか。
十分に硬かったか。
挿入できたか。
長く続いたか。
相手を満足させられたか。
オーガズムへ導けたか。
自分もイケたか。
これを会社の会議資料にしたら、
なかなか立派なKPI一覧になる。
SEXのはずなのに、
下手をすると本人の頭の中では、
快楽より進捗管理の方が忙しい。
「まだイってない」
「早すぎた」
「今日は挿入できなかった」
「相手をイカせられなかった」
こうした評価が生まれる背景には、
オーガズムこそ良いSEXのゴール
という考え方もある。
性研究ではこれを
orgasm imperative / orgasmic imperative
などと呼ぶ。
要するに、
「SEXなら最後はイって当然」
という無意識の圧力だ。
快楽を追いかけすぎると、SEXが「仕事」になる
ここには人間らしい皮肉がある。
本来オーガズムは快感のはずだ。
ところが「必ず達成すべきもの」
になった瞬間、快感は義務へ変わる。
「イかなければ」
と思えば思うほど緊張する。
相手も、
「イかせなければ」
と焦る。
結果として二人とも、
快楽を味わうより採点表を眺め始める。
SEXが、
前戯という助走をつけ、
挿入という本番へ入り、
オーガズムというゴールテープを切る
競技になってしまうわけだ。
人間はつくづく、自由な遊びを
ルール化するのが好きである。
だが興味深いのは、この「SEXの成功条件」が
永遠不変ではないことだ。
20世紀の性指南書を眺めると、
時代とともに「良いSEX」の定義自体が変化している。
つまりSEXのゴールは、
身体だけが決めているのではない。
社会が「ここをゴールと呼ぼう」と設定している部分もある。
日本では「前戯」の次が、よりによって「本番」になった
ここで日本語へ戻ってみよう。
「前戯」という言葉もなかなかだが、
それ以上に面白いのが、
「本番」
という呼び方だ。
本番。
本当の番。
練習ではない。
予行ではない。
ここからが正式。
ここからが本物。
日常語としては舞台や試験、
スポーツなどにも使われる言葉なのに、
性風俗や成人向け表現では性交を指す言葉として定着している。
ただし、性的な意味で「本番」がいつ、どこから生まれたのかについては
確実な語源資料が乏しく、特定の業界や時代を起源として断定するのは難しい。
それでも、現代日本語で「前戯/本番」が
セットとして理解されていること自体は興味深い。
英語の intercourse や penetration なら、
少なくとも行為を具体的に指している。
ところが「本番」は、
その行為がSEXの中心である
という価値判断まで一緒に運んでくる。
前戯。
本番。
この二語を並べただけで、
すでに序列が完成している。
日本の性文化を歴史的に見ると、さらに話は複雑になる。
江戸期には現代の性的カテゴリーと
そのまま重ならない性文化が存在し、
明治以降になると西洋由来の医学・精神医学・性科学が流入していく。
大正期には「性欲」「同性愛」「異性愛」「変態性欲」など、
人間の性を分類し、名前を与え、
正常と異常を区別しようとする言説が大衆レベルまで広がっていった。
つまり日本人が昔からSEXしていたことと、
現代人と同じ言葉・分類・順序でSEXを理解していたこと
はまったく別なのである。
身体は昔からそこにある。
しかし、その身体をどう分類し、
どの行為を中心と呼び、どこからどこまでを
SEXとするかは時代によって変わる。
SEXの歴史とは、行為の歴史であると同時に、
人間が性へ名前を付け続けてきた歴史でもある。
ところが現代、「前戯」はどんどん巨大化している
さて、長い歴史の末に
前戯というカテゴリーを作った人類だが、
現代では逆に困ったことが起きている。
前戯の範囲が広がりすぎている。
キスは前戯。
愛撫も前戯。
マッサージも前戯。
性的な会話も前戯。
耳元で囁くエッチな言葉も前戯。
スマホ越しに交わす性的なメッセージも前戯。
昼間に送る少し挑発的なメッセージまで
「前戯」と表現されることがある。
こうなると、素朴な疑問が出てくる。
前戯はいつ始まったのか。
ホテルへ入った瞬間?
キスした瞬間?
夕食中に目が合った瞬間?
昼休みに届いたメッセージ?
あるいは前日のデートから?
もし夕方5時のLINEから前戯なら、
午後6時の会議は「前戯の途中で仕事していた」ことになる。
人類の生活が急にエロくなる。
だが冗談を抜きにすると、
ここには大切な変化がある。
現代の性教育やセックスセラピーでは、
前戯を単なる「挿入の準備運動」と考えず、
親密さやコミュニケーションそのものを含めて
広く捉えようとする考え方が増えている。
これは、従来のSEX観をひっくり返す。
もし全部がSEXなら、「前」なんていらない?
キスそのものが楽しいなら、
それは本編ではないのか。
愛撫だけで二人が十分満足したなら、
「本番まで行けなかった」と言う必要はあるのか。
オーラルだけで終わったSEXを
「途中」と呼ぶ理由は何なのか。
逆に挿入したからといって、
それだけで必ず「完成」なのか。
こう考えていくと、
前戯とは特定の行為を指す名前ではなく、
挿入を中心に置いたときにだけ成立する相対的な概念
なのかもしれない。
山頂があるから麓がある。
主役がいるから脇役がいる。
「本番」を設定したから「前戯」が生まれる。
だったら、中心を外してしまえばいい。
キスも本編。
愛撫も本編。
オーラルも本編。
挿入も本編。
会話だって、その二人にとって
性的な時間なら本編になり得る。
そうなるとSEXは、
前戯→本番→絶頂
という一本道ではなくなる。
ルートの決まっていない遊び場になる。
SEXを一大叙事詩にしたのは、身体より人間の想像力だった?
もちろん、SEXから身体を切り離すことはできない。
性的興奮には生理的な変化がある。
身体の状態を整えるために時間が必要な人もいる。
だから前戯にあたる刺激が
大切なこと自体は、何もおかしくない。
ただし、
身体が「ここまで前戯、ここから本番」
と線を引いているわけではない。
その線を引いたのは人間だ。
人間は昔から触れ合い、キスをし、
愛撫し、性交してきた。
それだけでは飽き足らず、そこへ順序を与えた。
序章を作った。
本編を作った。
クライマックスを作った。
そして「良いSEXなら、この順序で進むはず」
という脚本まで作った。
前戯。
本番。
絶頂。
まるで三幕構成の大作映画である。
だが現実のSEXは、そんなに律儀ではない。
序章だけで傑作になる夜もある。
本編から始まる夜もある。
クライマックスがなくても満足する夜もある。
途中で笑って物語が崩壊することだってある。
むしろ、それが普通なのかもしれない。
そう考えると「前戯」という言葉は、
人間の性についてかなり多くのことを教えてくれる。
身体についてではない。
SEXをどう意味づけ、どう序列化し、
どう物語にしたがるのかという、
人間の文化についてだ。
もし今夜、キスだけで二人とも満足したとする。
その時間は、
「前戯で終わった」のか。
それとも、
最初から最後まで、
それ自体が立派なSEXだったのか。
答えは身体ではなく、たぶん二人が決めればいい。

