目次
「腹が減ったからラーメン食いてえ」
これを聞いて、
その人の人間性まで疑う人はあまりいない。
「今日は昼まで寝たい」
これもせいぜい「疲れてるんだな」で終わる。
ところが、
「セックスしたい」
となると、なぜか空気が少し変わる。
さらに、
「経験人数が多い」
「浮気したことがある」
「こういうタイプに興奮する」
「こんな性的嗜好がある」
となれば、話は欲求の強弱だけでは済まない。
「この人、信用して大丈夫?」
「だらしない人なのでは?」
「意外とそういう人なんだ」
「本性が見えた」
いつの間にか性欲から人格診断が始まる。
日本では食欲・睡眠欲・性欲を俗に
「三大欲求」と呼ぶことがある。
もっとも、心理学や生理学に
「人間の欲求はこの三つ」と定めた
公式ランキングが存在するわけではない。
水分、呼吸、体温維持など、
生存に関わる欲求はほかにもある。
それでも、ここでは馴染みのある
三つを並べて考えてみたい。
腹が減る。
眠くなる。
性的に興奮する。
どれも身体から勝手に湧いてくる。
なのに、なぜ最後の一つだけが、
これほど「その人はどんな人間なのか」
という話にまで発展するのか。
「昔の宗教がセックスを悪いものにしたから」
そう言ってしまえば簡単だ。
だが歴史を覗いてみると、
話はもっと面倒で、そしてずっと面白い。
性欲だけが悪者だった? 七つの大罪を見ると話は違ってくる
キリスト教文化における
「七つの大罪」を思い出してみよう。
そこには色欲がある。
だが同時に、暴食もある。
怠惰もある。
つまり、歴史的には性欲だけが
「欲望に負けた悪い人間」の証拠だったわけではない。
食欲だって、十分に道徳の問題だった。
暴食も色欲も「欲望の奴隷になるな」という話
中世キリスト教で問題視されたのは、
食べる行為そのものではない。
人間は食べなければ死ぬ。
だから食欲そのものを消すことなどできない。
問題になるのは、必要を超えて
快楽だけを追い続ける「暴食」だ。
性についても似ている。
単純に「身体に欲望がある=即アウト」という話だけではなく、
欲望に振り回され、理性や意志を失うことが問題視された。
この発想の背景には、
キリスト教以前の古代哲学もある。
たとえばストア派。
ストア派とは、ざっくり言えば
感情や快楽に引きずられず、
理性によって自分を統御することを重視した
古代哲リシア・ローマの哲学だ。
腹が減ったから食う。
酒が飲みたいから飲む。
ムラムラしたから即行動する。
それでは自分が欲望を操っているのではなく、
欲望に自分が操られている。
古代から中世にかけて、
「立派な人間とは自分を支配できる人間だ」
という理想像が育っていった。
だから色欲だけが突然、
悪魔扱いされたわけではない。
むしろ、
食欲も性欲も怒りも金銭欲も、
理性によって扱うべき危険物だった。
そう考えた方が近い。
「寝る=怠惰」でもない
では睡眠欲はどうか。
七つの大罪には「怠惰」があるから、
食欲=暴食
睡眠欲=怠惰
性欲=色欲
と綺麗に三つ並べたくなる。
だが、ここには少し罠がある。
中世以前に「怠惰」の源流となった概念に
アケーディアという言葉がある。
簡単に言えば、
単なる「寝坊」よりずっと重い。
何をする気にもならない。
祈りも仕事も嫌になる。
自分が取り組んでいる生活そのものに
意味を感じなくなる。
そんな倦怠や無気力まで含んだ状態だ。
必要な睡眠や休息そのものが罪だったわけではない。
問題だったのは、
「眠い」という身体の要求より、
「本来やるべきことを放棄する」という生き方の方だった。
ここまで見ると、最初の疑問が少し変わってくる。
「なぜ性欲だけが道徳化されたのか?」
ではない。
食欲も怠惰も、十分道徳化されている。
本当に不思議なのは、
なぜ性だけが、その後
「欲望をどれだけ我慢できるか」を超えて、
“どんな人間なのか”を判定する情報にまで成長したのか?
ということだ。
性が特別になる理由その1 セックスの後ろには「社会」がついてくる
まず決定的に違うのが、
セックスは一人の身体だけで完結しにくいということ。
一人でカツ丼を二杯食べても、
翌朝胃もたれするのは基本的に本人だ。
昼まで寝ても、困るのは
せいぜい本人と待ち合わせ相手くらい。
だがセックスは他者との関係になりやすい。
そして妊娠が起これば、
一気に話が大きくなる。
誰の子なのか。
誰が育てるのか。
子どもはどの家族に属するのか。
財産は誰が継ぐのか。
誰と誰が結婚できるのか。
つまり性は、身体的快楽であると同時に、
家族・婚姻・血統・相続という社会システムの入口でもあった。
「誰と寝るか」が財産の話になる
文化人類学には「親族制度」という言葉がある。
難しそうだが、要するに、
誰を家族とみなし、
誰と結婚でき、子どもがどの一族に属し、
財産や地位をどう引き継ぐかという社会のルール
のことだ。
世界には父親側の系統を重視する社会もあれば、
母親側を重視する社会もある。
「父親とは何か」
「血のつながりをどう考えるか」
でさえ、文化によってかなり違う。
だから、
「男が自分の子どもを確認したかった。
だから女性の貞操が生まれた」
と一本線で説明してしまうのも危険だ。
性規範はそんなに単純ではない。
ただ、一つだけ言えることがある。
セックスには、生殖を通じて
社会制度を揺らす可能性がある。
誰と寝るかが、誰と誰が親戚になるかを変える。
誰の子かが、相続を変える。
結婚相手が、家と家の関係を変える。
そう考えると、人類が昔から妙に
他人のセックスへ口を出したがった理由も少し分かる。
単に人類全員がワイドショー好きだったわけではない。
セックスは、共同体にとって放っておきにくい欲望だった。
性が特別になる理由その2 「ムラムラに勝てるか」が人格テストになった
社会制度の問題に加えて、
もう一つ大きかったのが「自己統御」だ。
性欲は強烈だ。
しかも厄介なことに、
理性で完全にオン・オフできるものでもない。
「では午後3時から15分間だけ性的興奮を開始します」
などという操作ができる人は、ほぼいない。
身体が勝手に反応する。
この「身体の勝手さ」が、
古代から中世の思想家にとって非常に気になる問題だった。
アウグスティヌスが気にした「身体が言うことを聞かない問題」
キリスト教思想を語るうえで避けて通れない人物に、
4〜5世紀の思想家アウグスティヌスがいる。
彼の議論をものすごく乱暴に噛み砕けば、
「なぜ人間の身体は、
理性や意志の命令に完全には従わないのか?」
という問題がある。
性的興奮は、その象徴として非常に分かりやすい。
頭では、
「今はダメだ」
と思っている。
なのに身体は反応する。
あるいは、
「この人を欲望してはいけない」
と思っている。
それでも欲望は湧いてくる。
この「自分の中に、自分の言うことを完全には聞かない何かがいる」
という感覚が、性欲を単なる快楽以上の哲学的問題にした。
そして、
欲望を抑えられる
=自分を支配できる
=理性的で立派な人間
欲望に流される
=自分を支配できない
=未熟な人間
という評価が生まれやすくなる。
ここで性欲は、
「何を感じたか」だけではなく、
「自分をコントロールできる人物なのか」を測る試験問題
になっていく。
現代でもこの感覚は意外と残っている。
「あいつ女癖悪いから、仕事でも信用できないぞ」
「既婚者なのに浮気する人間は自己管理できない」
性行動と仕事能力には直接関係がない場合も多い。
それでも、性の自己統御から人格全体を推測したくなる。
ずいぶん昔に作られた回路が、
まだ頭のどこかに残っているようにも見える。
そして決定打 「何をしたか」ではなく「何を欲する人なのか」へ
ここから話はさらに奇妙になる。
ある行為を禁止するだけなら、
「それをするな」
で終わる。
ところが性については、それだけでは終わらなかった。
「何をした?」
だけではなく、
「なぜそれを欲した?」
「誰を欲した?」
「何を想像した?」
「その欲望は自分の中にどれくらいある?」
と、どんどん内面へ入っていく。
ここで登場するのが、20世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーだ。
「性は抑圧された」どころか、むしろ語らされ続けた
フーコーの考え方を簡単に言えば、
近代社会は性について黙らせたというより、
むしろ性について猛烈に語らせたのではないか
というものだ。
宗教的な告解では、
自分が犯した罪だけでなく、
心に浮かんだ欲望まで語る。
近代になると、今度は医師や精神科医や性科学者が質問する。
どんな相手に興奮するのか。
自慰をするのか。
どんな性的行為をするのか。
いつからその欲望があるのか。
そして答えを積み重ね、
「あなたはこういう種類の人間だ」
と分類する。
ここで性は大きく変わる。
単なる「行為」ではなくなる。
その人の正体を読み解く鍵になる。
考えてみれば妙な話だ。
「豚骨ラーメンが好き」
と言われても、
「なるほど。ではあなたの深層人格について説明しよう」
とは普通ならない。
「休日は12時間寝たい」
でも同じだ。
だが、
「男性に興奮する」
「女性に興奮する」
「両方に興奮する」
「こういうシチュエーションに興奮する」
となると、「その人について重大な情報を知った」と感じる。
性欲は、欲望であると同時にプロフィール情報になった。
もっと言えば、
性欲だけが自己紹介欄へ侵入した。
ここに今回の疑問への大きな答えがある。
人類は性を規制しただけではない。
性から「あなたは何者なのか」を読み取る文化を作ったのだ。
「宗教の時代は抑圧、科学の時代は自由」でもなかった
ここまで読むと、
「なるほど。昔は宗教が性を厳しく管理していた。
でも近代になって科学が発達して自由になった」
と思いたくなる。
ところが歴史は、そこまで綺麗ではない。
宗教の影響力が弱くなると、
今度は医学や性科学が性について語り始めた。
昔なら、
「不純」
「罪深い」
と呼ばれたものが、
「異常」
「病的」
「正常からの逸脱」
と呼ばれるようになる。
評価する人が神父から
医師へ変わっただけ、という場面さえある。
ここで出てくるのが医療化という考え方だ。
難しい言葉だが、
以前は道徳や習慣の問題とされていたものを、
病気・健康・正常・異常といった
医学の言葉で説明するようになること
を指す。
かつて同性愛や自慰などが医学によって
「異常」と分類された時代があったのも、この流れの一部だ。
もちろん医学や性科学は、
性病予防、避妊、身体知識など、
多くの面で人々を助けてきた。
だから「科学も結局悪だった」という話ではない。
重要なのは、
性を評価する物差しが消えたのではなく、
物差しの名前が変わることがある
という点だ。
純潔/不純
から
正常/異常へ。
罪/無罪
から
健康/病理へ。
人間は性について自由になったというより、
別の言葉で性を分類するようになった面もある。
日本でも「純潔」から「科学」へ――でも性はずっと人格教育だった
これは西洋だけの話ではない。
戦後日本の学校では「純潔教育」が行われた。
その名の通り、婚前性交を避けることや
貞操を守ることが重要なテーマになった。
ただし、建前では男女双方の純潔を求めながら、
実際の性のイメージには大きな男女差があった。
男性の性欲は「能動的で強い」。
女性の性欲は「受動的で弱い」。
そんな説明が長く流通した。
つまり女性は、
「本当はそれほど性欲がない存在」
として描かれやすかった。
そうなると、性的に積極的な女性はどうなるか。
単に「性欲が強い女性」では終わらない。
「女性らしくない」
「貞淑ではない」
「まともな結婚相手ではない」
と、人格評価へ直結する。
ここでも性欲はただの欲求ではなく、
その人が“正しい男女像”に収まっているかを測るものになっていた。
1970年前後になると、この価値観に大きな揺さぶりが入る。
ウーマンリブなどの女性解放運動では、
「女性にも性欲がある」
「女性にも性的快楽がある」
という、今なら当たり前に聞こえる言葉自体が社会への挑戦になった。
なぜそんな当然のことが挑戦になるのか。
それまで「女性の欲望」は、
本人の身体の話というより、
社会が理想とする女性像によって決められていたからだ。
その後、日本の学校教育でも
「純潔教育」という言葉から「性教育」へ比重が移っていく。
性器。
妊娠。
避妊。
性病。
身体について科学的に教える。
一見すると、道徳から科学への大転換だ。
だがここにも面白い問題が残る。
「正しい性」
「健康的な性」
「責任ある性」
という価値判断は消えていない。
つまり、
性道徳が消滅したというより、
性道徳が科学っぽい服に着替えた部分もある。
現代は本当に「性に自由」なのか?
では2020年代の今、
性と人格を結び付ける文化はもう消えたのか。
少なくとも、昔とまったく同じではない。
「婚前性交をした女性は不純」
という価値観は、多くの社会で以前より弱くなった。
処女かどうかを結婚相手の絶対条件にする文化も縮小している。
ただし、性から人格を読む習慣そのものが消えたわけではない。
「経験人数が多い人は浮気しそう」
「遊んでいる男は信用できない」
「性的に奔放な女性は結婚向きではない」
そんな評価は今も聞く。
しかも興味深いのは、
男女で評価が完全に同じとは限らないことだ。
多数の研究をまとめた分析でも、
性的に活発な男性と女性が同じようには
評価されない傾向が確認されることがある。
俗にいう、
男なら「モテる」
女なら「遊んでいる」
というダブルスタンダードだ。
ただし、この差は文化や年代、
どんな行為を評価するかによってかなり変わる。
現代の研究では、
性経験の多さそのものより、
浮気する。
相手を騙す。
他人の恋人に手を出す。
同意を無視する。
こうした行為の方が人格評価へ強く響くケースもある。
ここに現代の特徴がある。
昔の性道徳では、
純潔であるかどうか
が重要だった。
現代ではそれより、
同意があるか。
相手を傷つけていないか。
約束を破っていないか。
誠実であるか。
が重視される。
言い換えれば、
性道徳はなくなったのではなく、
「純潔の倫理」から「同意・危害・誠実さの倫理」へ重点を移した。
自由恋愛の時代になっても、
「何をしても自由」
になったわけではない。
むしろルールの中心が変わったのだ。
結局、なぜ性欲だけがここまで「人間性」に食い込んだのか?
ここまでの話をまとめると、
答えは一つではない。
宗教が全部作ったわけでもない。
人間の本能だけでもない。
男尊女卑だけでもない。
医学だけでもない。
いろいろな要素が積み重なった。
性には他者がいる。
生殖がある。
家族がある。
婚姻がある。
相続がある。
強い快楽がある。
自分をコントロールできるかという問題がある。
宗教では欲望を告白する。
医学では欲望を分類する。
近代以降は、その欲望がアイデンティティにもなる。
こうして性欲は、
「身体から湧いてくる欲求」
であるだけでは済まなくなった。
誰を欲するか。
どう欲するか。
どこまで欲望を抑えられるか。
その欲望とどう付き合うか。
そうした情報が、いつの間にか、
「この人はどんな人間なのか」
を判断する材料になった。
食欲も道徳化された。
怠惰も道徳化された。
それでも、
「どんなラーメンに興奮するか」で人格の核心を語る人はいない。
「休日に何時間眠りたいか」で
性的指向のような自己紹介カテゴリーができることもない。
性だけが、欲望の一ジャンルを超えて、
人生観、恋愛、家族、信用、正常性、
アイデンティティまで巻き込んだ。
だから現代人は、性について
昔より自由になったように見えても、
性をどうでもいいものにしたわけではない。
むしろ逆かもしれない。
誰を好きになるのか。
何に興奮するのか。
どんな関係を望むのか。
どこまでが許され、どこからが裏切りなのか。
人類は今も、ものすごい熱量で性について考え続けている。
もしかすると「性に自由な時代」とは、
性を気にしなくなった時代ではなく、
昔とは違うルールで、以前にも増して性について語る時代
なのかもしれない。
そしてそう考えると、
「性欲は人間の三大欲求の一つ」
という何気ない言葉も、急に妙に見えてくる。
食欲や睡眠欲と同じ棚に並べられているのに、
性欲だけはずっと、
「で、あなたはどんな人間なの?」
とこちらへ問い返してくるのだから。

