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セックスに偏差値はあるのか?「平均」に一喜一憂する人類と、性を数値化したがる心理

セックスに偏差値はあるのか?「平均」に一喜一憂する人類と、性を数値化したがる心理

「セックス 平均回数」
「挿入時間 平均」
「ペニスサイズ 平均」
「経験人数 平均」

性にまつわる検索ワードを眺めていると、
人類がいかに「平均」という言葉を愛しているかがよく分かる。

別に統計学の試験を受けるわけではない。

ペニスの長さを全国大会で競う予定もなければ、
挿入時間によって段位が与えられる制度もない。
経験人数が一定数を超えたからといって
履歴書に資格欄が増えるわけでもない。

それでも気になる。

「俺って普通?」

これである。

平均より上なら、ちょっと嬉しい。
平均より下なら、ちょっと不安になる。

昨日まで何の不満もなかった性生活なのに、
「同年代男性の平均」という数字を見た途端、
急に自分の成績表を渡されたような気分になることさえある。

考えてみれば妙な話だ。

そもそもセックスには、
全国共通の採点基準など存在しない。

それなのに人間は勝手に平均値を集め、
そこに一本のボーダーラインを引き、
自分の性生活を上だ下だと判定している。

まるで、試験問題も採点基準も存在しないのに、
受験者だけが大量にいる全国模試である。

なぜ我々は、これほどまでに「性の平均」を知りたがるのか。

そして、その数字を知ったところで、
本当に安心できるのだろうか。

今回は平均回数、持続時間、ペニスサイズ、経験人数といった
“性の数字”を入口に、人類が性を偏差値化せずにはいられない心理を掘り下げてみたい。

性には正解がない。だから「平均」が欲しくなる

学校のテストなら分かりやすい。

80点を取れば、
少なくとも40点よりは正答数が多い。

100メートル走なら、
12秒の人は15秒の人より速い。

しかし性になると、突然ルールが消える。

週に何回セックスすれば「正常」なのか。
何分挿入できれば「上手い」のか。
経験人数は何人なら「ちょうどいい」のか。
ペニスは何cmなら「合格」なのか。

誰も正式な答えを持っていない。
そこで登場するのが他人である。

「普通」が分からないと、人は隣を見る

心理学には「社会的比較」と呼ばれる考え方がある。

簡単に言えば、
人間は自分だけでは自分を評価しにくいとき、
他人との比較を使って現在地を知ろうとする。

自分の給与が高いのか分からなければ
同年代の平均年収を見る。

自分の身長が高いのか分からなければ
日本人男性の平均身長を見る。

そして性について不安になれば、

「30代 セックス回数 平均」

と検索する。

つまり平均を検索しているようで、
実際に欲しいのは数字そのものではない。

「俺は普通なのか?」という判定だ。

しかも性は、他人の日常が見えにくい。

友人が昨日何回セックスしたかなど普通は知らないし、
職場の同僚の経験人数を一覧表で渡されることもない。

他人が見えない。
でも自分の位置は知りたい。

そこで「平均」が、姿の見えない他人たちを
代表する便利な代理人になる。

平均という一本の線が、ただの数字を「勝ち負け」に変える

たとえば「13cm」という数字があったとする。

それだけなら、ただの長さだ。

ところが横に、

「平均12cm」

と書かれた瞬間、話が変わる。

「俺、平均より上じゃん」

となる。

12cmという数字には
「勝ち」とも「優秀」とも書いていない。

統計が示しているのは
中心的な値にすぎないのに、人間の頭の中では、

平均以上
↓
人より上
↓
優秀
↓
ちょっと嬉しい

という変換が始まる。

逆方向も同じ。

平均10人と聞いて、自分の経験人数が3人なら、

「少ない」

が、

「遅れている」

に変わり、

場合によっては、

「自分には魅力がないのでは」

にまで飛躍する。

ここで起きているのは、単なる測定ではない。

順位付けである。

平均という線を一本引いた瞬間、
数字だったものが偏差値のような意味を持ち始める。

サイズ、時間、経験人数……なぜ全部「男の点数」になってしまうのか

さらにややこしいのは、
性には一つではなく
大量の“採点項目”が存在することだ。

ペニスサイズ。
勃起力。
挿入時間。
セックスの回数。
経験人数。
相手を満足させられるか。

本来なら、全部まったく別の話である。

身長と握力と年収を足して
「人間力47点」と計算する人はあまりいない。

ところが性になると、
なぜかこれらが一つの科目にまとめられやすい。

その科目名は、

「男としてどうなのか」

である。

性的パフォーマンスが「男らしさ」の通知表になる瞬間

男性にとって性的能力は、
単に性行為の技術だけでなく、
男性性や自尊心と結びつくことがある。

「勃起できる」
「長くできる」
「経験がある」
「女性を満足させられる」

こうしたものが、一部の男性文化では
「男として有能であること」の証明として語られてきた。

だから失敗したときも、

「今日は体調が悪かった」

だけでは終わらない。

「俺ってダメなのでは?」

まで行ってしまう。

ペニスが平均より短い。
挿入時間が平均より短い。
経験人数が平均より少ない。

本来それぞれ独立した情報なのに、頭の中で合算され、

“俺という男の総合点”

のようなものが生成される。

もちろん、そんな総合点は実在しない。
誰も計算式を決めていない。
それでも人間は勝手に計算する。

ペニス+経験人数+持続時間+回数+自信=男偏差値。

かなり無茶苦茶な式なのだが、
本人の中では意外と深刻だったりする。

そして深刻であればあるほど、また検索する。

「平均より短い 大丈夫」
「経験人数 少ない 男」
「セックス 長持ち 平均」

こうして、性の全国模試は自主開催され続ける。

その「平均」、本当に信じて大丈夫?

ここまで「なぜ平均を気にするのか」を見てきた。

しかし、もっと根本的な問題がある。

その平均、本当にそこまで絶対的な数字なのか。

実は性に関する平均値は、
調査方法を少し変えるだけでも見え方がかなり変わる。

平均サイズ、平均時間、平均人数――実は全部“測り方”に左右される

ペニスサイズを例にしよう。

大規模な系統的レビューでは、
医療者によって測定された
1万5000人規模までのデータがまとめられている。

こう聞くと、

「なるほど。世界中の男性1万5000人以上が
勃起した状態で並び、厳正なる測定会が開催されたのか」

と想像したくなるが、
実際はそんなシュールな大会ではない。

研究ごとに測定状態も人数も異なり、
勃起時の長さを測定した人数は全体よりずっと少ない。

ここで重要なのは平均値そのものより、

「1万5000人」という見出しだけでは、
その数字がどう作られたのかまでは分からない

という点だ。

持続時間も同じ。

有名な研究では、
カップルにストップウォッチを使用してもらい、
膣内挿入から射精までを計測している。

中央値はおよそ5分台。

するとネットでは、

「男性の平均挿入時間は約5分」

と紹介される。

ここで突然、

「俺は8分だから勝った」

となる。

しかし研究が測っているのは
挿入から射精までの時間である。

前戯は含まない。
キスも含まない。
会話も含まない。
相手が満足したかどうかも、それだけでは分からない。

5分という数字は、単なる一つの計測値だ。

なのに人間は勝手に、

5分=標準的な上手さ

へ変換する。

温度計を見て「今日は25℃」と言われたのに、
「25℃だから天気偏差値50」と評価し始めるようなものだ。

そして経験人数となると、さらに面白い。

英国の大規模調査では、
男性が申告する生涯の異性パートナー数と
女性が申告する人数に大きな差が出た。

同じ社会の男女が互いに相手になっているなら、
単純に考えれば数字はもっと近づきそうなものだ。

しかし実際には、極端に多い回答、
正確に数えるのではなく概算する傾向、
性に対する価値観などが数字に影響する。

つまり「経験人数の平均」とは、

実際の性行動+記憶力+数え方+見栄+恥+自己イメージ

をミキサーに放り込んで出来上がった数字でもある。

数字というと無機質で冷静に見える。

だが、その数字を作っているのは感情だらけの人間である。

「平均以下だった!」と落ち込む前に、その教室に自分がいたか確認しよう

平均値を見るときに、
もう一つ重要なのが誰を平均したのかだ。

たとえば日本の大規模な性に関する調査では、

「平均経験人数○人」
「月の平均セックス回数○回」

といった数字が発表されることがある。

これだけ見ると、
未経験男性は震えるかもしれない。

「平均経験人数が約10人? 
俺、平均から10人も遅れてる……」

しかし、その数字が
セックス経験者だけを対象に計算されているなら話は別だ。

未経験者は平均以下だったわけではない。
そもそもその平均を計算した教室に入っていない。

これはかなり重要な話である。

平均には必ず「誰の平均か」が付いている。

20代なのか。
全年代なのか。
既婚者なのか。
未婚者なのか。
交際相手がいる人なのか。
性交経験者だけなのか。
男女合算なのか。
ネット調査なのか。
全国調査なのか。

さらに「平均値」なのか「中央値」なのか
「最頻値」なのかでも、見える世界は変わる。

たとえば経験人数が、

0、1、1、2、46

だった場合、平均は10人。

しかし5人中4人は2人以下だ。

ここで、

「このグループの平均経験人数は10人です」

だけを見せられたら、かなり景色が違って見える。

性の数字は、とくに一部の極端な回答に引っ張られやすい。

だから「平均」という一語だけを見て、

普通=この数字

と考えるのは危ない。

「平均」と「普通」は、
似ているようで同じものではない。

平均を調べれば安心できる……はずだった

そもそも、なぜ平均を調べるのか。
多くの場合は安心したいからだろう。

「俺だけじゃないよな?」

という不安に、

「大丈夫。平均的ですよ」

と言ってほしい。

ところが、人間心理はそう単純ではない。

平均を知ることで、安心するどころか
新しい不安の種が生まれることがある。

自分は昨日と同じなのに、他人の数字だけで不幸になれる

想像してほしい。

ある男性が、恋人と月4回セックスしている。

本人は特に不満もない。

ところがネットで、

「同年代男性の平均は月2回」

という記事を見つける。

「お、俺たちはけっこう多いな」

ちょっと気分がいい。

次の日、別の記事を見る。

「同年代カップルの平均は月8回」

急に、

「……俺たち少なくない?」

となる。

本人の性生活は昨日から何一つ変わっていない。

回数は4回のまま。
恋人との関係も同じ。
体も同じ。
変わったのは、比較対象となる数字だけだ。

実際、他人の性生活との相対的な位置と
幸福感の関係を調べた研究では、
自分自身の性行為頻度だけでなく、
比較対象となる集団の性行為頻度との関係も確認されている。

もちろん「他人の方がセックスしていると知ったら必ず不幸になる」
と単純に断定できる話ではない。

ただし一つ言えるのは、

人間は自分がどれだけ持っているかだけでなく、
隣がどれだけ持っているかでも満足度を変えうる

ということ。

給料でもそう。
家の広さでもそう。
SNSのフォロワー数でもそう。
そしてどうやら、セックスも完全に例外ではない。

こうなると「平均」を検索する行為は妙な循環に入る。

不安になる。
↓
平均を調べる。
↓
平均以上なら安心する。
↓
さらに上を見る。
↓
また不安になる。

あるいは、

不安になる。
↓
平均を調べる。
↓
平均以下だった。
↓
もっと詳しい平均を探す。
↓
さらに不安になる。

安心するために買った物差しで、
自分を何度も殴っているようなものだ。

そもそも「多ければ偉い」というゲームですらない

性の偏差値化には、
さらに致命的な欠陥がある。

何点取れば勝ちなのかが決まっていない。

セックス回数は多いほど偉いのか。
では週1回より毎日が上なのか。
毎日より1日3回ならさらに上なのか。

そんな単純な話ではない。

性生活と幸福感を調べた大規模研究では、
交際関係にある人について、
性行為頻度とウェルビーイングの関係は
無限の右肩上がりではなかった。

つまり、

回数を倍にすれば幸福も倍になる

というものではない。

サイズも同じ。
時間も同じ。
経験人数も同じ。

数値として測れることと、
数値が大きいほど優秀であること
はまったく別である。

身長は数字で測れる。
だからといって2メートル40センチの人が、
1メートル80センチの人より人間として高得点なわけではない。

体温も数字で測れる。
42℃だから36.5℃より健康偏差値が高いわけでもない。

ところが性になると、

大きい=強い。
長い=上手い。
多い=モテる。
回数が多い=充実している。

という単純な一本線を引きたくなる。

人間はランキングが大好きなのだ。
ランキングにできないものまで、ランキングにする。

人類が戦っているのは「架空の平均男」なのかもしれない

ここまでさまざまな平均を見てきた。

では、それらを全部一人の男性に集めてみよう。

平均的なペニスサイズ。
平均的な挿入時間。
平均的な経験人数。
平均的なセックス回数。
平均的な年齢。
平均的な恋愛経験。
平均的な性欲。
平均的な性的満足度。

彼こそが、我々が無意識に比較している
「性偏差値50の男」である。

しかしこの男、実在するのだろうか。

おそらくかなり怪しい。

ペニスサイズの平均は海外の医療者測定。
挿入時間は別の国々のカップル。
経験人数は英国の全国調査。
セックス回数は日本のネット調査。
年代も調査年も対象者も違う。

それらを全部合体させて、

「これが普通の男です」

と言われても困る。

もはや平均的男性ではない。
統計データのパーツを縫い合わせて作った、
性的フランケンシュタインである。

それでも人間は、その架空の男を頭の中に作る。

彼は自分より経験豊富で、
自分より長く、
自分より大きく、
自分より頻繁にセックスしていて、
しかも毎回なぜか相手を満足させている。

そんな万能選手を勝手に作り出し、

「俺は普通以下かもしれない」

と落ち込む。

冷静に考えると、相手が強すぎる。
実在しないのだから当然だ。

まとめ:性の偏差値は「受験者だけがいる全国模試」

性の平均が気になること自体は、
それほど不思議ではない。

正解が見えないものほど、
人は他人を見て自分の位置を確かめたくなる。

「自分は普通なのか」
「変ではないか」
「人より劣っていないか」

その不安を埋めるために、
平均という数字はとても便利だ。

ただし、便利だからこそ勘違いも起きる。

平均的であること。
医学的に問題がないこと。
世間から好まれること。
性行為が上手いこと。
本人とパートナーが満足していること。

これらは全部、別の話だ。

平均5分だから5分が理想とは限らない。
平均10人だから10人経験すれば立派になるわけでもない。
平均サイズを1cm超えたから、その瞬間に
女性満足度ランキングが上昇するわけでもない。

平均という数字は、集団を理解するためには便利な道具だ。

しかし、それを個人の価値を
採点する答案用紙にした瞬間、話がおかしくなる。

性の偏差値というものがあるとすれば、
それはかなり奇妙な試験だ。

問題用紙はない。
統一された採点基準もない。
何点が満点なのかも決まっていない。

それなのに受験者だけが大量にいて、
隣の点数を気にしている。

そして今日も誰かが検索する。

「セックス 平均」
「ペニスサイズ 平均」
「経験人数 平均」

たぶんその人が本当に知りたいのは、数字ではない。

「俺は大丈夫か?」

という一言なのだろう。

セックスは数字で測れる。
だが、数字にできることと、
その数字でセックスの価値まで測れることは同じではない。

少なくとも、存在しない全国模試の偏差値で一喜一憂するほど、
人類は暇で、繊細で、そして妙に真面目なのである。

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