目次
童貞だった頃の男は、初体験をどこか
人生の大型アップデートのように考えている。
一度セックスをすれば、何かが変わる。
女性の前で妙にソワソワしなくなる。
街中の綺麗な女性を見ても、変に神々しく感じなくなる。
女の子と話す時に声が裏返らなくなる。
飲み会で恋愛話になっても、
急にグラスの水滴を見つめなくて済むようになる。
そして何より、
「俺はまだ童貞だから」
という、あの重たい呪いから解放される。
そう思っている。
いや、思いたいのだ。
童貞という言葉には、
ただの「性経験がない」という意味以上の重さがある。
男にとってそれは、未開封のまま残された自分。
誰にも選ばれていない自分。
女の子の身体を知らない自分。
そして、男同士の会話の中で
いつ爆発するかわからない地雷のようなものでもある。
だから男は夢を見る。
初体験さえ済ませれば、自分は少し大人になる。
女性に対して余裕が出る。
性欲に振り回されなくなる。
男としての自信が生まれる。
人生のどこかに置き忘れてきた
「普通の男」行きの切符を、ようやく手に入れられる。
だが、現実はなかなか残酷である。
初体験の翌朝、
男は別に生まれ変わっていない。
普通に眠い。
普通に腹も減る。
スマホを見ても、
女性からのLINEが急に増えているわけではない。
鏡の中の自分も、昨日までとほぼ同じ顔をしている。
セックスを経験したからといって、
女性にモテ始めるわけではない。
急に会話が上手くなるわけでもない。
女性の心理が手に取るようにわかるわけでもない。
ただひとつ変わることがある。
それは、もう自分に対して、
「童貞だから仕方ない」
という言い訳が使えなくなることだ。
ここから始まる。
童貞卒業後の、もうひとつの地獄が。
童貞リビドーとは何か?それは単なる性欲ではない
まず、今回のテーマである
童貞リビドーについて考えたい。
リビドーというと、
なんだか難しそうな心理学用語に聞こえる。
ざっくり言えば、性欲や欲望のエネルギーのようなものだ。
しかし、ここで言う童貞リビドーは、
単なる「セックスしたい」という欲望だけではない。
もちろん、したい。
それはもう、したい。
男の性欲は時に、本人の人格や理性とは
別のところで勝手に立ち上がる。
深夜、スマホ、ひとりの部屋。
この三点セットが揃った時の男の精神など、
もはや高尚な生き物ではない。
だが、童貞リビドーの厄介さは、
そこに承認欲求が混ざるところにある。
ただ性欲を満たしたいだけではない。
女性に認められたい。
男として通用したい。
自分も誰かに選ばれる側の人間だと思いたい。
「自分は欠陥品ではない」と証明したい。
つまり童貞リビドーとは、
性欲の顔をした承認欲求
なのである。
「セックスしたい」の奥には、
もっと情けなくて、もっと切実な声がある。
俺も男として大丈夫だと言われたい。
俺も女の子に触れていい人間だと思いたい。
俺も誰かに求められる側に回りたい。
俺も、あっち側の男になりたい。
この「あっち側」が厄介だ。
モテる男。
女慣れしている男。
恋愛経験を自然に語れる男。
女性の前で変に肩に力が入らない男。
女の子と目を合わせても、
脳内で勝手に緊急会議が始まらない男。
童貞リビドーに囚われている男は、
女性そのものを求めているようでいて、
実はその向こうにある
“男として認められた自分”を求めている。
だから、たった一度セックスをしたくらいでは終わらない。
性欲は一時的に満たされるかもしれない。
しかし、承認欲求は残る。
劣等感も残る。
女性への過剰な妄想も残る。
自分はモテないという現実も、きっちり残る。
童貞リビドーとは、性器の問題ではない。
もっと深いところにある、男の自尊心の問題なのだ。
初体験を済ませれば男は変わる、という哀しき幻想
童貞時代の男は、初体験をやたら神聖視する。
いや、神聖視というより、
もはや国家資格くらいに思っている。
取得すれば、人生のステージが上がる。
女性という難関ジャンルに対して、
ようやく受験資格を得られる。
飲み会で恋愛トークになっても、
堂々と席に座っていられる。
男友達の下ネタにも、曖昧な笑顔ではなく、
経験者側の余裕で乗れる。
そんなふうに思っている。
しかし実際の初体験は、
そんなに綺麗なものではないことも多い。
緊張する。
段取りがわからない。
頭の中で見てきた映像と現実が違う。
相手の反応が読めない。
自分の身体も思った通りに動かない。
終わった後に、なぜか妙に冷静になる。
そしてふと思う。
「あれ? 俺、変わったか?」
変わっていないのである。
いや、もちろん何かしらの経験にはなる。
未知だったものが既知になる。
女性の身体が、完全な空想上の存在ではなくなる。
セックスが、漫画やAVの中だけの出来事ではなくなる。
それは大きい。
だが、それはあくまで
一度現実に触れたというだけだ。
初体験は、モテる男への転生イベントではない。
ステータス画面が急に光り、魅力値が50上がるわけではない。
街を歩けば女性が振り返り、
職場の女の子が急に優しくなり、
学生時代に自分をスルーしていた女子たちが後悔し始めるわけでもない。
そんな都合のいい物語はない。
初体験は、童貞というラベルを外してくれる。
しかし、非モテの人生を丸ごと書き換えてくれるわけではない。
ここで男は気づく。
童貞だったからモテなかったのではない。
モテなかった結果として、童貞だったのだ。
この順番に気づいた時の絶望たるや、なかなか味わい深い。
「経験はある。でもモテてない」初体験後に始まる新しい地獄
童貞には、ある意味でわかりやすい苦しみがある。
未経験である。
それだけで説明がつく。
女慣れしていないのも、緊張するのも、
余裕がないのも、セックスに幻想を抱くのも、
全部「童貞だから」で片づけられる。
もちろん本人にとっては重い。
だが、言い訳としては非常に便利でもある。
「俺はまだ経験がないから」
「一度すれば変わるかもしれない」
「今はまだスタートラインに立っていないだけ」
そうやって未来に希望を残せる。
しかし、一度経験してしまうと、
その魔法の言い訳は使えなくなる。
そして男は、次のステージに進む。
経験はある。でもモテてはいない。
これがなかなかきつい。
童貞ではない。
でも女慣れはしていない。
セックスはしたことがある。
でも次の予定はない。
一応経験済み。
でも女性の前では相変わらず挙動不審。
身体は知った。
でも距離の詰め方はわからない。
経験人数はゼロではない。
でもモテる男とは天地ほど差がある。
これが、いわゆるセカンド童貞的な苦しみである。
一般的には、セカンド童貞とは、
一度は性経験があるものの、
その後長くセックスから遠ざかっている男性を指す。
だが、この言葉にはもう少し広い哀愁がある。
セカンド童貞とは、単にブランクがある男ではない。
一度入口をくぐったのに、
また外に放り出された男である。
童貞は、入口の前で立ち尽くす苦しみだ。
セカンド童貞は、入口を一度くぐったのに、
結局その世界に居場所がなかった苦しみである。
一度経験したからこそ、余計にわかる。
自分はまだ、女性に自然に選ばれる側の男ではない。
セックスをしたことがあるだけで、
恋愛強者になったわけではない。
ただ、未経験という看板だけが外れただけ。
これは地味に残酷だ。
なぜなら童貞時代には、
まだ「未知への希望」があった。
一度すれば変わるかもしれない。
女を知れば落ち着くかもしれない。
男としての自信が生まれるかもしれない。
だが初体験後の男は知ってしまう。
一度したくらいでは、何も解決しない。
それどころか、今度は「一度しかしていない自分」に苦しみ始める。
人間の劣等感は、なんと勤勉なのだろう。
男の妄想は、初体験くらいでは現実にアップデートされない
では、なぜ初体験をしても、
男は童貞リビドーから自由になれないのか。
理由のひとつは、
男の妄想がしぶとすぎるからである。
童貞時代の男の頭の中には、
すでに膨大な性的イメージがある。
AVで見た女。
エロ漫画で見た展開。
ネットで読んだ体験談。
友人が語る、どこまで本当かわからない武勇伝。
SNSに流れてくる刺激的な言葉。
深夜に検索してしまった、あれやこれや。
そうした断片が積み重なり、
男の脳内には、実際の女性とは別の存在が作られていく。
それは、非常に都合のいい女性像である。
いつも魅力的で、いつも受け入れてくれて、
男の性欲に合わせて反応してくれて、
面倒な感情や体調や生活を持っていない女性。
こちらの緊張も未熟さも全部包み込んでくれるのに、
こちらは相手の機嫌や不安を深く考えなくていい女性。
要するに、現実の女性ではなく、
男の性欲が編集した女性である。
そして厄介なことに、
初体験をしたからといって、
この脳内女性はすぐには消えない。
現実のセックスは、妄想のようには進まない。
相手には相手の気持ちがある。
空気がある。
タイミングがある。
体調がある。
恥ずかしさがある。
不安がある。
沈黙もある。
うまくいかない瞬間もある。
何より、相手は人間である。
当たり前なのだが、この当たり前に男はつまずく。
妄想の中では、女性はいつも都合よく反応してくれる。
だが現実の女性は、こちらの脳内脚本通りには動かない。
そりゃそうだ。
人間なのだから。
しかし、童貞リビドーに囚われた男は、
この落差にうまく対応できない。
現実の女性に合わせるのではなく、
脳内の女性像を捨てきれない。
だから初体験をしても、
まだどこかで幻想を見続ける。
もっと激しいはず。
もっと甘いはず。
もっと自分を受け入れてくれるはず。
もっと女の子はこういう反応をするはず。
その「はず」が、男を苦しめる。
初体験は、妄想の卒業式ではない。
むしろ、妄想と現実の落差を
初めて突きつけられる入学式である。
性教育の空白に、AVとポルノが流れ込む
男の童貞リビドーを考える時、
避けて通れないものがある。
それが、AVやポルノである。
もちろん、AVやポルノそのものが悪いという単純な話ではない。
多くの男にとって、それは性欲の逃がし場所であり、
孤独な夜の相棒であり、ある意味では
現実で傷つかずに済む安全地帯でもある。
問題は、男がそこで
セックスを学んだ気になってしまうことだ。
学校で教わる性教育は、
多くの場合、避妊や性感染症、
身体の仕組みが中心になる。
それももちろん大事だ。
むしろ大事すぎる。
だが、男が本当に知りたいことは、そこだけではない。
女性とどう距離を縮めるのか。
どこからが失礼なのか。
相手が不安な時、どう振る舞えばいいのか。
同意とは、ただ「いいよ」と言わせることではなく、
どういう空気の中で成り立つものなのか。
セックスの前後で、女性がどんな感情になることがあるのか。
自分の性欲を、どう相手との関係の中で扱えばいいのか。
こういうことは、なかなか教わらない。
男の性欲は勝手に育つ。
しかし、女性との距離感は勝手には育たない。
この空白に、AVとポルノが流れ込む。
男は女体には詳しくなる。
だが、女性の気持ちには妙に疎いまま大人になる。
これはかなり悲しい。
検索すれば、いくらでも裸は見られる。
だが、目の前の女性が
なぜ不安そうな顔をしたのかはわからない。
ジャンル名はやたら知っている。
だが、相手が何を望んでいるのかを
聞く言葉は持っていない。
映像の中の女性の反応は覚えている。
だが、現実の女性の小さな沈黙を
どう受け止めればいいのかわからない。
そして男は、初体験の場面でつまずく。
AVで見たはずなのに。
ネットで知っていたはずなのに。
頭の中では何度もシミュレーションしたはずなのに。
現実は、ぜんぜん違う。
それもそのはずである。
AVは、男が興奮するように作られている。
現実のセックスは、相手と一緒に作るものだ。
この違いを知らないまま、男は大人になる。
そして一度セックスを経験しても、
脳内にこびりついたポルノ脚本は簡単には消えない。
だから童貞リビドーは続く。
経験がないから妄想するのではない。
経験してもなお、妄想のほうが楽だから、
そこに戻ってしまうのだ。
童貞マインドの正体は、女性への関心ではなく“選ばれたい自分”である
ここで少し、耳の痛い話をしよう。
童貞リビドーに囚われている男は、
よく「女が好きだ」と思っている。
彼女が欲しい。
セックスしたい。
可愛い子と仲良くなりたい。
女性にモテたい。
もちろん、それ自体は自然な欲望だ。
だが、その欲望をよく見ると、
実は目の前の女性本人にはあまり関心がないことがある。
興味があるのは、
その女性が自分をどう見てくれるか。
自分を選んでくれるか。
自分の男としての価値を証明してくれるか。
自分の寂しさや劣等感を埋めてくれるか。
つまり、女性が好きなのではなく、
女性に選ばれる自分が欲しい
のである。
これはなかなか痛い。
「彼女が欲しい」と言いながら、
具体的にどんな人とどんな時間を過ごしたいのかは考えていない。
「女の子と仲良くなりたい」と言いながら、
その子が何を好きで、何を嫌がり、
何に傷つくのかには鈍い。
「愛されたい」と思っているのに、
自分が相手をどう大切にするかは後回し。
欲しいのは、相手ではなく、
相手に認められた自分。
癒やされたいのは、相手との関係ではなく、
自分の劣等感。
もちろん、これは男だけの話ではないかもしれない。
だが、非モテ男性の童貞リビドーには、
この成分がかなり濃い。
だから厄介なのだ。
一度セックスをしても、
女性への関心が育っていなければ、
童貞マインドは残る。
相手を人間として見るのではなく、
自分を救ってくれる存在として見ている限り、
男はずっと苦しい。
女性は、男を救うために存在しているわけではない。
当たり前だ。
だが、こじれた男ほど、心のどこかでそれを期待してしまう。
俺を認めてくれ。
俺を受け入れてくれ。
俺の性欲を否定しないでくれ。
俺が男であることを証明してくれ。
そういう願いを、女性に全部背負わせてしまう。
重い。
あまりにも重い。
しかも本人は、それを愛情だと思っていたりする。
このすれ違いが、童貞リビドーの悲劇である。
初体験後に残るのは、性欲ではなく「男としての不安」かもしれない
初体験前の男は、
「できるかどうか」に怯えている。
そもそも機会が来るのか。
相手に引かれないか。
うまくリードできるのか。
途中で失敗しないか。
自分はちゃんと男として機能するのか。
この不安は、とてもわかりやすい。
しかし初体験後には、
また別の不安が生まれる。
うまかったのか。
相手は満足したのか。
自分は下手だったのではないか。
次があったら同じようにできるのか。
経験人数が少ないことがバレないか。
女慣れしていない感じが出ていないか。
童貞時代は、経験の有無がコンプレックスだった。
しかし経験後は、今度は経験の質が気になり始める。
本当に面倒くさい。
男の劣等感は、ひとつクリアすると、
すぐ次の課題を出してくる。
童貞を卒業したら、
今度は「経験人数が少ない」。
経験人数が増えたら、
今度は「テクニックがない」。
テクニックを覚えたら、
今度は「本当に満足させられているのか」。
どこまで行っても、自分を採点し続ける。
この採点癖こそ、童貞リビドーのしぶとい部分である。
男は女性を前にしているようで、
実はずっと自分の通知表を見ている。
俺は男として何点なのか。
この子は俺をどう評価しているのか。
自分は合格なのか、不合格なのか。
そんなことばかり考えているから、
目の前の女性が見えなくなる。
本来、セックスや親密さは、相手と一緒に作るものだ。
だが、童貞リビドーに囚われた男にとって、
それはしばしば試験になる。
男としての試験。
モテ度の試験。
自尊心の試験。
童貞だった自分を否定できるかどうかの試験。
そんな状態で、余裕など生まれるはずがない。
初体験を済ませても男が救われない理由は、ここにもある。
彼はセックスを経験したのではなく、
また新しい採点会場に入ってしまったのだ。
風俗は童貞リビドーの救済になるのか?
では、風俗はこの童貞リビドーの救済になるのか。
これは、単純に
「なる」とも「ならない」とも言い切れない。
風俗は、男にとって非常に不思議な場所である。
恋愛ではない。
結婚でもない。
彼女でもない。
けれど、女性と近い距離で接する。
自分の性欲を否定せず、
一定のルールの中で受け止めてもらえる。
日常では言えない欲望や緊張を、
少しだけほどくことができる。
非モテ男性にとって、それは大きい。
女性と話すだけで緊張する。
好意を向けるのが怖い。
断られるのが怖い。
自分の性欲を見透かされるのが恥ずかしい。
そんな男にとって、風俗は現実の女性と接する
ひとつの入口になり得る。
ただし、風俗は魔法ではない。
一度行けば人生が変わるわけではない。
童貞リビドーが成仏するわけでもない。
非モテ人生に突然、春風が吹くわけでもない。
大事なのは、そこで女性をどう見るかだ。
もし女の子を、ただ自分の妄想を
処理するための存在として見てしまえば、
童貞リビドーはむしろ強化される。
「お金を払ったのだから、自分の都合通りに癒やされたい」
「自分の理想通りに振る舞ってほしい」
そんな感覚が強くなれば、
現実の女性との距離はますます遠くなる。
でも逆に、目の前の女の子をひとりの人間として見られたなら。
プロとして接してくれている相手への敬意を持てたなら。
自分の欲望を押しつけるのではなく、
会話や空気や距離感を大事にできたなら。
風俗は、こじれた性欲を少し現実に戻す場所になり得る。
画面の向こうの女ではなく、目の前にいる人。
妄想の登場人物ではなく、感情も疲れも好みもある人。
その当たり前に触れるだけでも、男にとっては意味がある。
風俗は、童貞リビドーを一瞬で消す場所ではない。
ただ、そのリビドーを少しだけ飼いならす
練習場にはなるかもしれない。
性欲は悪ではない。
寂しさも悪ではない。
女性に触れたいと思うことも、
男として認められたいと思うことも、
それ自体は恥ではない。
問題は、その欲望をどう扱うかだ。
自分の中にある情けなさを
見ないふりして、女性にぶつけるのか。
それとも、「俺は今、寂しいんだな」
「認められたいんだな」
「性欲と承認欲求が混ざっているんだな」と、
少しだけ自分を見つめるのか。
この差は大きい。
風俗は、そのどちらにも転び得る場所だ。
だからこそ、男の器が試される。
男はいつ童貞リビドーから自由になれるのか?
では結局、男はいつ童貞リビドーから自由になれるのか。
初体験を済ませた時か。
経験人数が増えた時か。
彼女ができた時か。
結婚した時か。
女慣れした時か。
おそらく、どれも完全な答えではない。
なぜなら童貞リビドーは、
性経験の少なさだけから生まれるものではないからだ。
そこには、男として認められたい気持ちがある。
女性に選ばれなかった過去がある。
下に見られたくないプライドがある。
自分は欠けているのではないかという不安がある。
性欲を恥じる気持ちと、でも満たされたい欲望がある。
こうしたものは、一度のセックスで消えるほど単純ではない。
たぶん、童貞リビドーは完全には消えない。
男は何歳になっても、
どこかにしょうもない性欲を抱えている。
綺麗な女性を見れば目で追う。
褒められれば嬉しい。
女の子に優しくされれば、ちょっと勘違いする。
モテたい気持ちも、完全にはなくならない。
男とは、なかなか情けない生き物である。
だが、自由になることはできる。
消すのではない。
飼いならすのだ。
自分の中に童貞リビドーが出てきた時、
「また出たな、お前」
と少し距離を取れるようになる。
女性を神のように崇めない。
女性を敵のように恨まない。
女性を自分の承認装置にしない。
女性を性欲の出口としてだけ見ない。
目の前の人を、ただ一人の人間として見る。
それができた時、男は少し自由になる。
童貞リビドーからの卒業とは、性経験の数ではない。
女性を前にした時、
自分の劣等感や性欲ばかり見つめるのではなく、
相手の存在をちゃんと見られるようになることだ。
これは簡単ではない。
むしろ、童貞卒業よりずっと難しい。
童貞卒業より難しいのは、童貞リビドーの卒業である
童貞を卒業しても、
男はしばらく童貞の亡霊を背負って歩く。
それは、女慣れしていなかった過去の自分であり、
モテたかった自分であり、
恋愛話になると急に静かになっていた自分であり、
深夜にスマホを握りしめて、
どうしようもない検索をしていた自分であり、
誰かに「大丈夫、お前も男だ」と言ってほしかった自分である。
その亡霊は、たぶん完全には消えない。
初体験を済ませても、消えない。
彼女ができても、形を変えて残ることがある。
何歳になっても、ふとした瞬間に顔を出す。
だが、消えないなら消えないでいい。
大事なのは、そいつに
ハンドルを握らせないことだ。
性欲はある。
妄想もある。
モテたい夜もある。
女性に認められたい気持ちもある。
自分が情けなくなる日もある。
それでも、その全部を女性に背負わせないこと。
自分の寂しさを、相手への期待にすり替えないこと。
性欲を否定せず、でも性欲に支配されないこと。
童貞卒業とは、身体の経験である。
しかし、童貞リビドーからの卒業は、
心の態度である。
一度セックスしたくらいで、男は変われない。
だが、一度現実を知った男は、
そこから少しずつ変わることはできる。
女性を神にしなくなった時、男は少し自由になる。
女性を敵にしなくなった時、もう少し自由になる。
そして女性を、自分を救う存在ではなく、
目の前にいる一人の人間として見られるようになった時。
男はようやく、童貞ではなく、
童貞リビドーから少しだけ自由になるのかもしれない。

