目次
- そもそも童貞は、本来“恥”の言葉ではなかった
- 近代日本で「恋愛できる男」が理想になった
- 恋愛・セックス・結婚が一本のレールになった
- 「処女は守るもの、童貞は捨てるもの」という男女差
- 昭和の男社会では、童貞は“男として未完成”の印だった
- 童貞は、女に笑われる前に男に笑われる
- 80〜90年代の恋愛消費社会が、童貞を“恋愛ゲームの敗者”にした
- メディアが作った「男はリード、女は選ぶ」という恋愛演技
- ネット時代、童貞は“経験”ではなく“雰囲気”になった
- 「30歳童貞魔法使い」は笑えるが、かなり残酷である
- 現代では童貞は珍しくない。なのに、なぜまだ恥なのか
- 童貞を笑う社会は、男の孤独も笑っている
- 風俗は“童貞卒業装置”なのか
- 童貞卒業より難しいのは、“童貞を恥だと思わされる社会”からの卒業
童貞。
たった二文字なのに、なぜ男の心臓を
こんなにも嫌な角度から刺してくるのか。
ただ「セックスをしたことがない」というだけなら、
別にそこまで大事件ではないはずだ。
スキーをしたことがない。
海外旅行に行ったことがない。
牡蠣にあたったことがない。
スカイダイビングをしたことがない。
世の中には、いくらでも「未経験」がある。
なのに童貞だけは、なぜか男の人格まで査定してくる。
「モテなさそう」
「余裕なさそう」
「女慣れしてなさそう」
「なんか童貞っぽい」
この“童貞っぽい”が、いちばん怖い。
なぜならそれは、実際に経験があるかどうかすら超えてくるからだ。
本人が「いや、ありますけど」と言ったところで、
言動や雰囲気から勝手に“童貞認定”されることがある。
童貞とは、いつの間にか事実ではなく、匂いになった。
経験の有無ではなく、男としての余裕、恋愛慣れ、
女性との距離感、人間としての成熟度まで勝手に測られる、
恐ろしく雑なラベルになった。
でも、よく考えると変な話である。
セックスをしたことがない。
ただそれだけで、なぜ男はここまで恥じるのか。
なぜ童貞は、笑われるのか。
なぜ男たちは、飲み会で「お前まだ?」と言われるだけで、
胸の奥に冷たい汗をかくのか。
なぜ「童貞卒業」という言葉には、
学校でも会社でも教えてくれないのに、
妙な人生の通過儀礼感があるのか。
童貞は、ただの未経験ではない。
それは男が社会から課されてきた、
恋愛・セックス・男らしさの卒業試験である。
そして多くの男たちは、その試験範囲すらよく分からないまま、
いつの間にか試験会場に立たされている。
そもそも童貞は、本来“恥”の言葉ではなかった
今でこそ童貞と言えば、どこか情けない響きがある。
未熟。非モテ。奥手。女慣れしていない。
場合によっては、少し気持ち悪いものとして扱われることすらある。
だが、童貞という言葉が最初からそんな扱いだったわけではない。
「童」は子ども。
「貞」は貞節、清らかさ、汚れていないこと。
字面だけ見れば、むしろ清潔で、どこか神聖ですらある。
宗教的な文脈では、性的な未経験や禁欲は、
純潔や献身と結びつくことがあった。
欲望に流されないこと。
身体を清らかに保つこと。
神聖なものに近づくこと。
つまり、かつての童貞性や処女性には、
「恥」どころか「清さ」の匂いがあった。
それが今ではどうだ。
「童貞です」と言った瞬間、天使の羽どころか、
背中に“未熟者”のゼッケンを貼られる。
清らかな男だったはずが、
いつの間にか笑われる男になっている。
この落差がすごい。
童貞は、最初から男をバカにするための言葉だったわけではない。
どこかの時代で、どこかの社会の中で、意味がねじ曲がっていった。
そして現代の男たちは、そのねじ曲がった意味だけを背負わされている。
近代日本で「恋愛できる男」が理想になった
童貞が恥になるには、
まず「恋愛できること」が価値にならなければならない。
これがけっこう重要である。
人間は昔から恋をしてきた。
男女の関係も、欲望も、結婚も、ずっと昔からあった。
しかし「恋愛」というものが、
人生を豊かにする美しい営みであり、
人格を高め、結婚に至るべき尊い感情である、
というふうに語られるようになると、話は変わってくる。
恋愛は、ただの好き嫌いではなくなる。
人間としての成熟。
心の交流。
人生の大事なイベント。
そして、ちゃんと大人になるためのステップ。
そうなると、恋愛経験のない男は、
単に「恋をしていない人」では済まなくなる。
どこか幼い。
人間関係が未熟。
異性と向き合えていない。
人生の大事な通過点を通っていない。
そんな目で見られ始める。
つまり童貞の恥は、セックスだけの問題ではない。
その前に、「恋愛できない男」という烙印がある。
男は、ただ性欲があればいいわけではなくなった。
ちゃんと好きになり、ちゃんと口説き、
ちゃんと付き合い、ちゃんと段階を踏んで、
ちゃんとセックスにたどり着かなければならない。
大変すぎる。
会話力。
清潔感。
空気読み。
リード力。
告白のタイミング。
デートの段取り。
距離の詰め方。
ホテルへの導線。
断られた時の引き際。
恋愛は、いつの間にか男に課された総合実技試験になった。
普通自動車免許の方が、まだ試験範囲が分かりやすい。
童貞の男が苦しいのは、
ただセックスをしていないからではない。
その前に、恋愛という複雑怪奇な競技に
参加できていないように見えるから苦しいのだ。
恋愛・セックス・結婚が一本のレールになった
現代社会には、表立っては誰も言わないが、
うっすら共有されている人生のレールがある。
好きな人ができる。
付き合う。
キスをする。
セックスをする。
結婚する。
家庭を持つ。
もちろん現実には、
この通りに進まない人はいくらでもいる。
恋愛しない人もいる。
セックスに関心が薄い人もいる。
結婚したくない人もいる。
同性を好きになる人もいる。
そもそも誰かと深く関わること自体がしんどい人もいる。
だが、それでも社会の空気はしつこく言ってくる。
「好きな人くらいいるよね?」
「彼女くらいいたことあるよね?」
「大人ならセックスくらい経験してるよね?」
「そのうち結婚するよね?」
この“くらい”が怖い。
男の人生は、いつもこの“くらい”に削られる。
彼女いるの?
いないんだ。
前はいたの?
いないんだ。
じゃあ経験は?
あ、もしかして童貞?
なんという尋問ルート。
しかも、聞いている側に悪気がないことが多い。
だから余計にたちが悪い。
「別にバカにしてないよ」
「ただ聞いただけじゃん」
「気にしすぎだよ」
そう言われると、こちらは黙るしかない。
童貞は、暴力的に暴かれるだけではない。
雑談のふりをした人生査定の中で、じわじわ炙り出される。
社会は、恋愛・セックス・結婚を
一本の自然なレールのように見せる。
そして、その途中で止まっている男に
「どうしたの?」という目を向ける。
童貞とは、性の未経験である前に、
普通の恋愛人生からの脱落として読まれてしまう状態なのだ。
「処女は守るもの、童貞は捨てるもの」という男女差
ここで、処女と童貞の扱いの違いを見てみると、
社会の身勝手さがよく分かる。
女性の処女は、歴史的に
「守るもの」「大事なもの」「清らかさ」と結びつけられやすかった。
もちろん、それはそれで女性を縛る厄介な価値観である。
経験が多いと軽く見られる。
純潔を求められる。
性的に積極的だとジャッジされる。
女性には女性の、かなり重い呪いがある。
一方、男性の童貞はどうか。
守るものではない。
むしろ早く捨てるもの。
残っていると恥ずかしいもの。
年齢を重ねるほど焦るもの。
女には「経験しすぎるな」と言い、
男には「いつまでも未経験でいるな」と言う。
なんという無茶振り社会。
片方にはブレーキを踏ませ、
もう片方にはアクセルを踏ませる。
その結果、女は経験を語りづらくなり、男は未経験を恥じる。
どちらも性をめぐる呪いだ。
ただし男の呪いは、なぜか飲み会で笑い話にされる。
「まだ童貞なの?」
「早く捨てろよ」
「男なら一回くらい行っとけよ」
男は性的に積極的であるべき。
男は女性をリードするべき。
男は経験を持っているべき。
男は余裕を見せるべき。
こうした男らしさの圧力が、
童貞という言葉にべったり貼りついている。
童貞が恥になるのは、セックスしていないからではない。
「男なのに、まだ女性をものにしていない」と見られるからだ。
ここに、なんとも古臭くて、
なんとも根深い男社会の価値観がある。
昭和の男社会では、童貞は“男として未完成”の印だった
昭和的な男社会を想像してみる。
会社の先輩。
酒。
煙草。
下ネタ。
スナック。
風俗。
武勇伝。
「男ならさあ」という、あの湿った前置き。
そこでは性経験が、しばしば
「一人前の男」になるための通過儀礼のように扱われてきた。
「まだなのか」
「じゃあ連れて行ってやるよ」
「男にしてやるよ」
余計なお世話にもほどがある。
だが、その余計なお世話こそ、
昭和的な男社会の湿った優しさであり、
暴力であり、妙な連帯でもあった。
童貞は、本人だけの問題ではない。
男集団が勝手に気にする。
男集団が勝手にいじる。
男集団が勝手に卒業させたがる。
まるで未完了タスクである。
本人が「別にまだいいです」と思っていても、
周囲が「いや、それはよくない」と騒ぎ出す。
そこには、文化人類学でいう通過儀礼に近いものがある。
子どもから大人へ。
未熟者から一人前へ。
男の世界の外側から内側へ。
その境目に、セックスが置かれていた。
筆おろしという言葉には、その空気がよく出ている。
童貞を失うことが、ただの性的経験ではなく、
男として筆をおろすこと、
大人の世界に入ることとして語られる。
そこには本人の欲望もあるが、それ以上に
「男としての通過点」を社会が勝手に設定している感じがある。
もちろん、そんなものは今の感覚ではかなり乱暴だ。
誰かの性経験を、周囲が勝手に管理したり、
促したり、笑ったりするのは、本来かなりおかしい。
それでも、その文化の残り香は今もある。
初体験を済ませた男は、なぜか少し大人になったように扱われる。
童貞の男は、なぜかまだ何かを終えていないように見られる。
童貞は、男集団の中で“卒業させるべき状態”として扱われてきたのだ。
童貞は、女に笑われる前に男に笑われる
ここが一番しんどいところかもしれない。
童貞の男は、女性の目を怖がっているように見える。
もちろんそれもある。
女性に「童貞っぽい」と思われたらどうしよう。
経験がないことがバレたらどうしよう。
リードできなかったらどうしよう。
余裕がないと思われたらどうしよう。
だが、実際には童貞は、
女性に笑われる前に男に笑われる。
部室で。
飲み会で。
職場で。
サークルで。
ネットで。
男子校で。
友達同士の雑な会話の中で。
「お前、まだ童貞?」
「マジで?」
「さすがにヤバくね?」
「童貞っぽいもんな」
「女知らないやつの意見じゃん」
これらは、ただの質問ではない。
男社会における順位確認である。
恋人がいるか。
経験人数は何人か。
どんな女と付き合ったか。
どこまでいったか。
どれくらい女慣れしているか。
そんなことが、男同士の会話では、
なぜかマウント材料になる。
そして童貞は、一番下に置かれやすい。
しかも厄介なのは、
これがだいたい笑いながら行われることだ。
怒れば「冗談じゃん」と言われる。
黙れば「やっぱ気にしてる」と思われる。
笑って流せば、自分で自分の傷口に塩を塗ることになる。
童貞いじりとは、
笑いの皮をかぶった男同士の査定である。
本当は傷ついている。
でも、傷ついた顔を見せると、さらに負けた感じがする。
だから男は笑う。
「いや、まあな」
「まだ守ってるわ」
「魔法使い目指してるから」
「俺は選ばれし者だから」
そうやって自分をネタにする。
ネタにしながら、心のどこかで少しずつ削れていく。
童貞の悲哀はここにある。
男は、自分の傷を自分で笑いに変えなければ、
男集団の中で生き延びられないことがある。
80〜90年代の恋愛消費社会が、童貞を“恋愛ゲームの敗者”にした
恋愛は、いつの間にか
金と演出のゲームにもなった。
特にバブル期から90年代にかけて、
恋愛はメディアや消費文化と強く結びついていく。
トレンディドラマ。
クリスマス。
夜景。
デートスポット。
ブランド品。
車。
レストラン。
ホテル。
恋愛は、気持ちだけではなく、演出になった。
どこへ連れて行くか。
何を食べるか。
どんな服を着るか。
どんな車で迎えに行くか。
どのタイミングで告白するか。
どのタイミングで手をつなぐか。
どのタイミングでホテルに誘うか。
男たちは、恋愛という名の無言の実技試験を受けさせられた。
そして童貞は、その試験会場にすら入れていない男として扱われた。
恋愛が「自然な気持ち」だけなら、まだよかった。
だが、それが演出と消費のゲームになると、
恋愛下手な男はさらに追い込まれる。
まず誘えない。
誘ったとしても、どこへ行けばいいか分からない。
会話が続かない。
距離の詰め方が分からない。
相手の反応を読みすぎて固まる。
そして家に帰ってから、脳内反省会だけは異常にうまい。
「なんであそこであんなこと言ったんだ」
「いや、あれはキモかったな」
「次はこうしよう」
「いや、次なんてないな」
この反省会には、誰も参加していない。
審査員もいない。
なのに自分だけが一晩中、自分を責め続ける。
恋愛消費社会は、男にスマートさを求めた。
しかし、童貞の男にスマートさを求めるのは、
初めてプールに入る人間にバタフライを要求するようなものである。
水に顔をつけるだけで精一杯なのだ。
それでも社会は言う。
「自然にやればいいじゃん」
「普通に誘えばいいじゃん」
「慣れだよ慣れ」
その“普通”が分からないから困っているのである。
メディアが作った「男はリード、女は選ぶ」という恋愛演技
ドラマや漫画や映画の中で、
男はしばしばリードする側として描かれてきた。
男が誘う。
男が告白する。
男が車を出す。
男が店を選ぶ。
男が守る。
男が決める。
女はそれを見て、選ぶ。
もちろん現実はもっと複雑だ。
女性がリードする恋愛もある。
お互いに不器用な関係もある。
そもそも恋愛に正解などない。
それでも、男の頭のどこかには、
この雑な脚本が残っている。
男は堂々としているべき。
男は余裕を見せるべき。
男は女を楽しませるべき。
男は空気を読んで、しかし必要な場面では大胆にいくべき。
無理である。
「空気を読め」と「大胆にいけ」を同時に要求される時点で、
もうかなりの無理ゲーである。
童貞の男は、この“男役”を演じるのが苦手なことが多い。
何を言えばいいか分からない。
どこまで踏み込んでいいか分からない。
好意を見せるとキモいと思われそうで怖い。
しかし見せなければ何も始まらない。
優しくすると友達止まりになる。
強く出ると迷惑になる。
距離を置くと忘れられる。
近づくと引かれる。
八方塞がりにもほどがある。
こうして童貞の男は、経験がないこと以上に、
「男らしい恋愛演技」ができないことを恥じるようになる。
童貞とは、性経験のラベルであると同時に、
“男役をうまく演じられない男”へのラベルでもある。
ネット時代、童貞は“経験”ではなく“雰囲気”になった
そしてネット時代、童貞はついに肉体を離れた。
実際にセックスをしたことがあるかどうか。
そんな事実確認は、もはや重要ではない。
大事なのは、童貞っぽいかどうか。
なんという無法地帯。
経験済みの男ですら、
発言ひとつで童貞に戻される時代である。
「童貞っぽい」
「童貞臭い」
「童貞ムーブ」
「童貞を殺す服」
「DT」
「セカンド童貞」
「30歳童貞魔法使い」
これらの言葉は、
もはや純粋な経験の有無を指していない。
女性慣れしていない感じ。
余裕のなさ。
妙な理想の高さ。
妄想の強さ。
距離感のバグ。
自意識の過剰さ。
恋愛経験の乏しさがにじみ出ている感じ。
そういうものを、まとめて“童貞っぽい”と呼ぶ。
恐ろしいのは、ここで童貞が
本人の申告を必要としなくなることだ。
「俺、童貞じゃないけど」
と言っても、
「でも童貞っぽいよね」
で終わる。
それはもう悪魔の証明である。
童貞は、状態ではなく雰囲気になった。
そして男たちは互いの“童貞臭”を嗅ぎ合うようになった。
「この発言、童貞っぽいな」
「この服装、童貞感あるな」
「この距離感、絶対女慣れしてないな」
まるでソムリエである。
ただし嗅いでいるのはワインの香りではなく、
男の自意識の発酵臭だ。
この現代的な童貞認定は、とても残酷だ。
なぜなら、卒業がないからである。
かつての童貞は、セックスすれば一応終わった。
しかし“童貞っぽさ”は、セックスしても残る。
むしろ経験したことで変に自信を持ち、
その自信の出し方を間違えると、
さらに童貞っぽくなることすらある。
地獄である。
童貞とは、もはや性経験ではない。
男の不器用さ、自意識、欲望、未熟さ、
寂しさ、女性への過剰な幻想が混ざり合った、
人格査定ワードになってしまった。
「30歳童貞魔法使い」は笑えるが、かなり残酷である
ネット文化の中でも、
「30歳まで童貞だと魔法使いになる」というネタは、かなり象徴的だ。
笑える。
確かに笑える。
しかし、よく考えるとひどい。
なぜセックスをしていないだけで、
急にファンタジー職に転職させられなければならないのか。
しかも本人の意思ではない。
社会が勝手にジョブチェンジさせてくる。
「おめでとうございます。あなたは本日より魔法使いです」
いや、頼んでいない。
しかしこのネタがここまで広まったのは、
男たちがどこかで知っているからだ。
童貞は、年齢を重ねるほど笑えなくなる。
18歳の童貞は、まあ普通かもしれない。
20歳の童貞も、まだ青春の延長に見える。
25歳になると、少し焦りが出る。
30歳になると、急にファンタジー領域へ飛ばされる。
童貞は、年齢とともに意味が変わる。
若い頃の童貞は、未経験。
大人になってからの童貞は、遅れ。
さらに年齢を重ねると、
人生のどこかで何かを逃した男のように見られる。
ひどい話である。
本人がどれだけ仕事を頑張っていても、
趣味が充実していても、
優しくても、誠実でも、
「でも童貞なんだ」
という一言で、なぜか人間として
半歩後ろに下げられる感じがある。
童貞の恥は、年齢とともに発酵する。
最初は小さな焦りだったものが、
いつの間にか自尊心の奥に沈殿していく。
そして男は、自分を守るために笑う。
「魔法使いだから」
「賢者モード極めてるから」
「むしろ守り抜いてるから」
そうやってネタにする。
だが、その笑いの奥には、たぶん小さな叫びがある。
本当は、誰かに選ばれてみたかった。
本当は、普通に恋愛してみたかった。
本当は、何でもない顔で経験談を話す側に回ってみたかった。
でも、できなかった。
その言葉にできない痛みを、
男たちは「魔法使い」という冗談で包んできたのかもしれない。
現代では童貞は珍しくない。なのに、なぜまだ恥なのか
現代では、恋愛していない人も、
セックスしていない人も、そこまで珍しくない。
マッチングアプリで疲れ果てる人もいる。
恋愛にお金や時間を割く余裕がない人もいる。
そもそも人付き合いが苦手な人もいる。
恋愛より仕事や趣味を優先する人もいる。
セックスにあまり強い関心がない人もいる。
恋愛や性のあり方は、明らかに多様化している。
それなのに、童貞という言葉だけは、
昔ながらの破壊力を保っている。
珍しくないのに、恥ずかしい。
増えているのに、笑われる。
社会全体の変化でもあるのに、
本人の魅力不足として処理される。
これが現代の童貞の残酷さである。
本当は、童貞が増えているなら、
恥の感覚も薄れていいはずだ。
「まあ、そういう人もいるよね」で済んでいいはずだ。
でも、そうはならない。
なぜなら、社会の現実は変わっても、
男らしさの価値観はしぶとく残るからだ。
男なら恋愛する。
男なら女性を口説く。
男ならセックスする。
男なら経験がある。
男なら余裕がある。
この古い男らしさだけが、
ゾンビのように残っている。
だから現代の男は、
恋愛しない生き方が増えているにもかかわらず、
恋愛できない自分を恥じる。
セックス未経験者が珍しくなくなっているにもかかわらず、
童貞である自分を責める。
社会は変わっている。
でも、男の心の中に住みついた昭和の先輩が、まだ言ってくるのだ。
「お前、まだなのか?」
うるさい。
本当にうるさい。
でも、その声を完全に無視できる男は、そう多くない。
童貞を笑う社会は、男の孤独も笑っている
童貞がつらいのは、
セックスできないからだけではない。
もちろん性欲はある。
触れたい。
抱きしめたい。
誰かと肌を重ねてみたい。
そういう欲望は、男の中に当然ある。
だが、それだけなら、まだ単純だ。
童貞の奥にあるのは、
もっと面倒で、もっと情けなくて、
もっと人間くさい痛みである。
誰かに選ばれたことがない気がする。
男として認められていない気がする。
恋愛の話になると、自分だけが別の教室にいる気がする。
周りが普通にこなしているイベントに、
自分だけ招待されていない気がする。
その孤独に名前をつけたもの。
それが童貞なのかもしれない。
男は、この孤独をあまり語れない。
「寂しい」と言えば弱く見える。
「モテたい」と言えば浅ましく見える。
「セックスしたい」と言えば下品に見える。
「愛されたい」と言えば、なんだか女々しい気がする。
だから男は、もっと雑な言葉に逃げる。
「ヤリたい」
「モテたい」
「彼女ほしい」
「童貞卒業したい」
でも本当は、その奥で叫んでいる。
誰かに受け入れられたい。
自分も普通の男として見られたい。
恋愛の話で笑ってうなずく側に回りたい。
下に見られたくない。
惨めだと思われたくない。
「お前はそのままでいい」と、誰かに言われたい。
童貞とは、性欲の問題であると同時に、承認の問題でもある。
男は、女を抱きたいのではなく、
“女に選ばれる男である自分”を確認したいことがある。
ここがしんどい。
セックスそのものよりも、
セックスできる男として扱われること。
恋愛対象になりうる男として見られること。
誰かの欲望や好意の対象になること。
その証明が欲しくて、男は童貞という言葉に傷つく。
童貞を笑う社会は、
男の性欲を笑っているようで、
実は男の孤独を笑っている。
恋愛が苦手なこと。
女性との距離感が分からないこと。
男同士のノリに入れないこと。
本当は傷ついているのに、笑うしかないこと。
そういう全部を、雑にまとめて「童貞」と呼び、笑っている。
あまりにも乱暴だ。
そして、あまりにも男らしい。
風俗は“童貞卒業装置”なのか
ここで、風俗という場所の話を避けて通ることはできない。
昔から、風俗は童貞卒業の場所として語られることがある。
恋愛でうまくいかない。
女性との距離感が分からない。
経験がないことが怖い。
でも、このまま年齢だけ重ねるのもつらい。
そんな男にとって、風俗は
ひとつの現実的な選択肢になることがある。
ただし、風俗に行けばすべてが解決するわけではない。
そこを勘違いすると、また別のこじらせが始まる。
風俗で童貞を卒業しても、
恋愛が急にうまくなるわけではない。
女心がすべて分かるようになるわけでもない。
翌朝、鏡を見たら急に大人の男の顔になっているわけでもない。
残念ながら、人生はそこまで親切ではない。
だが、それでも意味がないとは思わない。
経験がないことへの恐怖が、
少し和らぐことはある。
女性の身体に対する過剰な幻想が、
少し現実に近づくことはある。
自分は絶対に女性に触れられない人間なのだ、
という思い込みが、少しほどけることはある。
風俗は魔法ではない。
でも、男が自分の中の硬くなった恐怖を
少しゆるめる場所になることはある。
大事なのは、そこにいる女性を
“卒業の道具”として見ないことだ。
相手は人間である。
仕事として向き合ってくれるプロである。
だからこそ、礼儀も、敬意も、思いやりも必要になる。
童貞を卒業したい。
その気持ちは、恥ではない。
ただ、誰かを踏み台にして男になるのではなく、
誰かに助けてもらいながら、自分の緊張や未熟さと向き合う。
そのくらいの感覚でいる方が、ずっと健全だ。
童貞卒業とは、単にセックスを済ませることではない。
自分の欲望に責任を持ち、
相手を人として見て、
変なプライドを少し下ろすことでもある。
本当の意味で男が少し大人になるとしたら、たぶんそこだ。
童貞卒業より難しいのは、“童貞を恥だと思わされる社会”からの卒業
童貞は、恥ではない。
ただ、恥だと思わされてきた歴史がある。
男なら恋愛しろ。
男なら女を口説け。
男ならセックスしろ。
男なら余裕を見せろ。
男なら経験を語れ。
男なら笑って流せ。
そんな命令を浴び続けて、
何も傷つかない男の方が珍しい。
童貞とは、単なる未経験ではない。
男が“普通の男”になるために背負わされた、
あまりにもバカバカしく、
あまりにも重い宿題である。
そしてこの宿題のいやらしいところは、
誰も正式に出していないことだ。
学校の先生も言わない。
親も真正面からは言わない。
会社の規則にも書いていない。
なのに、男たちはどこかで知っている。
彼女がいないと、少し下に見られる。
経験がないと、少し子ども扱いされる。
女慣れしていないと、少し笑われる。
童貞っぽいと、少し人間として安く見られる。
その“少し”が積み重なって、
男の自尊心を削っていく。
だが、本当はおかしい。
セックスをしたことがないだけで、
その人の価値が下がるわけがない。
恋愛が苦手なだけで、
人間として未完成なわけがない。
女性との距離感に不器用なだけで、
男として失敗なわけがない。
そんなことは頭では分かっている。
それでも傷つく。
だから厄介なのだ。
童貞という言葉は、
男の理性ではなく、男の古傷を刺してくる。
選ばれなかった記憶。
会話に入れなかった夜。
好きな人に何も言えなかった帰り道。
友達の恋愛話に笑ってうなずきながら、
内心で遠くへ逃げたくなった時間。
「お前、まだ?」の一言に、
何でもないふりをした自分。
そういうものが、童貞という二文字に詰まっている。
だから、童貞を笑うのは簡単だ。
だが、童貞を笑う時、人はたぶん、
誰かの未経験だけでなく、
誰かの孤独も笑っている。
そして男たちは、その孤独を笑いに変えながら、
今日もなんとか生きている。
童貞卒業は、たしかにひとつの経験かもしれない。
それによって、少し楽になる男もいるだろう。
変に神格化していたセックスが、
案外人間くさいものだと分かることもあるだろう。
でも、本当に難しい卒業は、その先にある。
童貞を恥だと思わされる社会からの卒業。
男らしさの古い試験からの卒業。
女に選ばれたかどうかだけで、
自分の価値を測る癖からの卒業。
男同士のしょうもない序列に、
自分の魂を差し出さないこと。
それは、セックスを一回経験するより、ずっと難しい。
童貞は、罪ではない。
欠陥でもない。
人生の敗北でもない。
ただ、男の社会がそこに、
あまりにも多くの意味を乗せすぎた。
清らかさだったものが、未熟さになり、
未熟ということが、恥になり、
恥だったものが、笑いになり、
笑いだったものが、男の心の奥で小さな叫びになった。
童貞。
たった二文字。
でもその中には、
性欲と、孤独と、見栄と、劣等感と、
承認欲求と、男社会のくだらなさと、
少しの希望が詰まっている。
だからこそ、笑っていい。
でも、笑い飛ばすだけではもったいない。
その二文字の奥には、ひとりの男がいる。
うまく恋愛できなかった男。
強がってきた男。
傷ついていないふりをしてきた男。
誰にも選ばれていない気がして、
それでもどこかで誰かに触れられたいと願っている男。
その男の叫びを、ただの下ネタで終わらせるのは、少し寂しい。
童貞とは、男が“普通の男”になろうとして、
誰にも見えない場所でつまずいた跡である。
そこに残っているのは、誰かに選ばれたかった、
ひとりの男の静かな祈りなのかもしれない。

